中島

 

 はい、ありがとうございます。で、実はこのテンポでいくと、このテンポで一作品なんですよ。最後に各作品に対して言及する時間も、この雑誌全体に対して「ギリギリの現代短歌」というテーマを設定して執筆者が書いているのですね、ギリギリの現代短歌についてこの作品はどうだったのとかもう一度最後に問います。なので、ここでは軽く触れておくことに留めて、一番最後に触れる形にしたいなと。

 

 続きまして、堀さんによる嶋さんの作品でいいですかね。

 

 

 はい。よろしくお願いします。こういうの初めてやるので上手くできるか分からないですがご容赦ください。嶋さんの作品、今回のポイントは、まず「数」なのかなと思って。数を手掛かりに比喩とあるいは時間性をどのように認識してらっしゃるかについて触れてみたいと思います。1番、「「数」としての現状把握あるいは「四辺系」」というタイトルなんですが、今ここに挙げた七首すべてに数が何かしら入っている、で、特に最初の五首についてざっと触れたいんですが、「七車線ほどの青空かたわらに美酒欄漫の看板広告」とか「友人の一人」「あと三歩の遠さ」「三ヶ月先」「二輪車」っていう風に数が使われているんですが例えば「二輪車」というのは別にオートバイでも自転車でもいいわけですが、そこは敢えて「二輪車」と言ったりだとか。一首目の「七車線ほどの」というところでは多分それくらいの幅ということだと思うんですが、切り取られた、クローズアップされた今ここ、現状把握というのですかね「七車線ほどの青空かたわらに美酒欄漫の看板広告」という看板広告が昭和っぽい日本酒のだと思うのですけれど、切り取られた今ここ。さっき「発見」のという山﨑さんのお話がありましたけど、言い換えるなら今ここにある現状把握を数を使ってよりクローズアップされたものにしているのかな。二首目の「アルペンザルツの」も割と特殊なもの? を使っているのかな、と。アルペンザルツの岩塩って多分青い筒状のようなやつなのかな見たことあるんですけど、そういうものを入れつつ、今ここであることを強調している。モノと数によって現状を強調しているのかなと思いました。そのあと、最後の二首ですね、「四辺よりはみ出してゆく」というのと、「頂上にもっとも早く」という二首が、タイトルの四辺というものに使われているものを取り上げたんですけど、この四辺というのは二つ意味があって、この辺りという言い方と、四方であるという言い方と二つあると思うんですけど、ただ数を使うだけでなくて四辺という言葉を使うことによって、もっと数として拡がりのある認識なのかなと思う。その四辺より、ここら辺よりはみ出していくとか、「トネリコの葉は四辺を揺らし」という切り取られてはいるんだけどもうちょっと拡がりがあって、そこら辺を画面が引いていくという感じ。切り取られていくんだけどちょっとフェードアウトしていくような感じが四辺という言葉には込められているのかなあと。これが一番です。二番、「「限定」された比喩、「抑制」された比喩」っていうところなんですが、これもタイトル四辺系に導かれるような比喩なのかなと思って。さっき一番で挙げた「七車線ほどの青空」っていう青空を七車線くらいの幅と言ってると思うんですが、これを限定された比喩として。「次に学校を休んで食べるパンのよう」これも、抑制された比喩と私はとらえたんですけど、比喩でありつつ「学校を休んで食べるパンのよう」諦めに似てる。ある種、だけど晴れ晴れとしたというのを抑えられた比喩で表されているのかなと思います。で、三なんですが、これちょっと私の言い方が曖昧で、「「かつて」そうであったかもしれないこと「今」そうであること「いつか」そうなるかもしれないこと」ということをこの連作では度々言ってるんじゃないのかなって。例えば「水槽はひび割れてなお頂点を崩さずにいる炎天の日に」という一首ですが、ひび割れてはいるんだけど、今こういう現状を、保っているというのか。今そうであることを認識させられる。二首目は、そうですね「遠くまで来てしまったね」これはちょっと甘い歌なのかな、甘いってスイートっていう意味です。「遠くまで来てしまったね」そうであったよねという。感じ。私の言い方が曖昧で難しい感じですが。三首目「いつの日か名前をつけた」かつてそうであった。私、穏やかな時間軸を作っていると書きましたけど、ここはちょっとご意見というか、どう考えられるかその時間性、時間の認識の違いについてみなさんにお伺いしてみたいかなと思います。今何分くらいですか?

 

中島

 

 ジャストです。はい、ありがとうございます。まず、数のイメージというのがあって、ごめんなさい私が把握しきれなかったところがあるんですけど、色々と数が出てきていて、それといろんなものの方向を見ながら一つのものに寄せて存在があるよね、と認識すると。その存在がこの先どう変容するかというあとからこれはどうだったのかを常に想像している。というのがこの作品全体でキーになっているという認識ですね。

 

 

 そうですね、一、二、三と私、分けましたけど、割と同じようなことかもしれないです言いたいこと。

 

中島

 

 そうですね。近しいことを色んなレイヤーから見直しているという評かなと思って確認させていただきました。吉田さんいかがでしょうか。

 

吉田

 

 はい。結構好みの連作だったというのが単純にありまして。どこが良いかというと、これは好みの問題になるのですけれど、数字と時間のお話が出ていたと思います。で、私はさらに空間の把握の仕方があると思っていて。それは、「水槽」の歌もそうですし、あるいは「美酒爛漫」の歌もそう、これは秋田の名酒ですね。美酒爛漫ってラジオ番組持ってましたよね確かね。で、その辺の空間の広さというところで、この方向を向いたら歌になりますよみたいな手触りというか一首の把握の仕方から水槽のここを見ていくというこれが、いわゆるポエジーを引っ張ってきたくて水槽をわざわざ割っているように見えない。この辺の手つきが観察している主体の選択として見えるというところがすごく好感を持ちました。だからポエジーのために水槽を割るんじゃなくってていう。こういう把握の仕方でできている連作だと思ったんで、そこは推せるポイントかなと思います。

 

中島

 

 ごめんなさい、ポエジーのために敢えて作為、選択はしているんだけど演出をしているわけではない?

 

吉田

 

 してない。いや、抑制された演出なのかもしれませんけど。

 

中島

 

 その抑制が効いているがゆえに想像力を掻き立てられる効果があるということですね。ありがとうございます。では伊舎堂さんいかがですか。

 

伊舎堂

 

 そうですね。「「数」としての現状把握」という一番でまとめてくれたやつみたいに123456という数字を入れた短歌という一連だよという、要はポエジー演出とか以外にも作者の遊び心みたいなものが読める工夫って、なんだろな読んでいて一個こちらもお題を設定された不自由な読み味になるんですけど、もっと言うと鼻につくんですけど、これに関して不自由な読み味も鼻につく感じもなく、こういう遊びをしているのに読めるのはなんでかなと思いながら発表を聞いてましたね。「水槽はひび割れてなお頂点」っていうのもポエジーのために割った感じはしない。さっきの伊波さんのレジュメの時のことと関わってくるんですけど、なんて言ったらいいかな。「カルピスのCMみたいに」笑った人がいたからそれを短歌化したっていうのが伊波さんの連作にはしないんですけど、実在しない何かを書いているってのが伊波さんから受けて。これはちょうど逆ですね。水槽がちゃんと割れている感じがするという。ってところでその根拠を語れないのがちょっと申し訳ないんですけど、それは受けましたね。

 

中島

 

 ありがとうございます。安堂さんこういうの初めてだという話だったんですがちょっと振ってみていいですか。

 

安堂

 

 私も嶋さんの連作は面白く、数が一個一個の短歌に出ているということで、探すという意味でも面白く読んだんですけど、さっき堀さんの仰った三番の「そうであったかもしれないことそうであることそうなるかもしれないこと」という読み方、この後に書いてある「穏やかな時間軸」は私もすごく感じて堀さんの評の感想で申し訳ないんですが。

 

中島

 

 堀田さん何かありますか。

 

堀田

 

 先ほど空間という話が出たんですけど、基本的に全体を統一しているのが三つあって、時空間上の数と、時空間上の形、そして時空間上の位置です。位置が移動したら時間の終わりとか、空間が始点から終点に行ったりだとか。こういうので不自然感でないのは全部これで成り立っているから。と、先ほど水槽がひび割れているのがわざとらしさを感じないというのも、それが焦点でなくてこの歌の。頂点を崩さずにいるという状態の把握がこの歌の肝になっているので、把握した認識の瞬間が詠まれている。ひび割れているってひび割れることに対しては時間が経っているんですけど、読まれているのはそこじゃない。例えば「たったいま頭上を過ぎる」のも頭上を過ぎているのに時間はあるんですけど、実際に歌の認識の時点になっているのは、ああ「流れのなかに輪郭を持つ」なという認識のポイントがあるので、だからどの歌もわざとらしさを感じず、時間が経っても時間が終わった時点で、ああこう思いましたとか、ああ滑走路には終点がないねとか、全部そういう状態になっているから自然に読めるんだなという気がしました。

 

中島

 

 なるほど。通奏低音が常に鳴っている状態があるということですね。モチーフとして。

 

 

 今の受けていいですか。さっきおっしゃられたことに関連するかわからないんですけど、今、現状把握という話で、数字が多分すごくうまく使われているのが、私のレジュメの三首目の「日陰まであと三歩の遠さ」という日陰まで行っちゃった方が多分意味があることなんだけど、そこではなく敢えてまだあと三歩ある遠さに今を把握している、数で。

 

堀田

 

 把握した瞬間は歩いてないんですよね。歩いてきているという時間はあったけれど、位置の移動があって時間と空間と。そこであと三歩というところ認識している。

 

 

 あるいはその「三ヶ月先の予定を企てて」っていうところも今、ですよね。

 

中島

 

 じゃあ主水さん。

 

主水

 

 堀さんの三番の「そうであったかもしれないことそうであることそうなるかもしれないこと」というのは、いわゆる偶然性の話で、必然か偶然か。この世界がどうしてこうあるかという話だと思うんですね。で、それがどうして1と繋がるかというのを考えていて、数の表現「七車線」「二輪車」「四辺」四辺は多分植木鉢の四辺だと思うんですけど、で、数に二種類ありますよね。新聞とかの校正でよく聞くのは一人一人という意味での一は漢字で書く。で、被害者が30人というときは算用数字で書く。つまり量的なものか質的なものかというのをよく聞くんですけど、例えば「七車線ほどの青空」だったら六車線が想像できるわけです。で、五車線、逆に七、八、九、十、十五、百までいっても、順番にこう、どんどん広げていけるけれども、あ、三歩も同じですね。五歩、百歩、どんどん長くいけるけれども、二輪車を三輪車にしたら全く違ったものになってしまう。二輪三輪四輪五輪と増やしていけるわけじゃない。だから「昨日」の方は量的ですよね。五ヶ月先でも二十四ヶ月先でもいい。でも、四辺もまた違いますね。四角形なので五角形六角形とどんどん増やしていくと違うものになってしまう。で、この量的なほう。七車線か八車線かというのは、この世界が偶然七車線であったというつまりその車線を作る時に八でも九でも良かったのが、偶然七になってしまった。という形があるのに対して、二輪車というものが存在するのはそれが三輪車でもあっても良かったんじゃなくって、その世界にたまたま二輪のものがあるというもっと大きな単位の偶然になっている。それがこの二つの数字の使い方で、たまたま、ここ、私が三歩の遠さにいる。たまたま三ヶ月先の予定を立てているというところから延長していって、たまたまこの世界に二輪で走る建物がある(編集者註 乗り物?)たまたま四辺というとても美しい形がある。っていう世界自体の偶然さえどんどん近づいていく。そうして三番の「いつの日か」というこの世界がいつか一回限りの雲に名前をつけたというものにつながっていく。その具体的な偶然感というのを数字を使って量的なもの、まあ言っちゃえば、十四ほどの景というか、花が十四、五あるというたまたまこの世界にある、たまたまこの世界に二輪があるという、この世界の特殊性ですね。英語だとスペシャリティだと思います。そういうものにどんどん近づいていく構造があるのかなと特にそれが数字でよく使われているなと思います。

 

中島

 

 堀田さん。

 

堀田

 

 私は、この数字は全部考えた数字じゃないかなと思って、この七車線というのもやっぱり必然じゃないかなと思うし、これが八とか六とかだったらちょっと違うと思うし、二輪車も当然そうですし、三歩、三ヶ月先というのも、これは二だと少ない、四や五だとちょっと漠然としてという関学は計算したんじゃないかと。

 

中島

 

 ここら辺の操作がまさに吉田さんの言う、自然に感じるんだけど実は抑制された演出かもしれないという両面の意見って感じですよね。

 

主水

 

 何歩でも有り得たなかで一個を選ぶのが必然性、どんな数でも有りえたなかで嶋さんが一つを選んだ時に、わざとらしさの話につながると思うんですけど、作者の一個の世界を選択しているというスペシャリティを選んでいるというのが出てくるのかなという。