滝本

 

 ありがとうございました。結構議論が出てきましたけれども、続きは総括のところに回すとして、次伊波さんお願いします。

 

伊波

 

 吉田さんの作品、この作品の最大の特徴は、まず文体だと思いまして。ト書きなんですね。僕も映画の演出とかするんですけど、ト書きってどういうことかと言うと、演劇の台本とかで、平易で客観的な文体で登場人物の行動を書いたりするんですね。その文体で一連作られているのが最大の特徴だと思いました。例えば「携帯のデフォルトのアラームが鳴り、もう一度鳴り、あなたは起きる。」とか。こう客観的で平易なんですね文体が。これは演劇の文体、演劇の台本の文体ですね、それをそのままやるっていう試みかと思いました。この後の歌「湯を沸かし、冷まして飲んだ跡がある。コップの縁がまだ濡れている。」とか。タイトルも「ト」なんですがこれもト書きのトかなということかと思いました。もう一点「ワンシチュエーション・ドラマの世界観」って書いてあるんですけど、よく三谷幸喜さんの映画か何かで、例えば舞台がずっとラジオ局とか、ずっと舞台が法廷とかありますよね、ああいったものを指します。今回部屋というワンシチュエーションで完結してるんですね。ちょっと後でまた補足しますけれどそれに関しては。完結してて。演劇とか観た事あると思うんですけど、天井と正面がなくて側面と後ろの壁しかないってありますよね舞台装置ありますよね。あれをちょっと想像するとあれを観ている感覚で読める一連かなと思いました。舞台というのは恋人と、多分恋人だと思うんですけれど、一緒に住んでる部屋、「六畳の白い部屋。その床面にあなたは水平に横たわる。」と。たまに外に出てくるシーンがあるんですけど、その部屋を出てと描いてるんですよね。その外部の世界を描くことによってより完結している感じというのを浮き上がらせているのかなって思いました。はい。まとめると非常に、演劇的なト書きの手法をどうそう言った舞台装置を想起させるような、文体で描いた非常に演劇的な手法というのを短歌でやるという点に特徴がある一連かと思いました。

 

滝本

 

 はい、ありがとうございました。えっ、じゃあ先にどうぞ。

 

山﨑

 

 あの、ト書きの文体であるとか、ワンシチュエーション・ドラマってのは読めばわかることなのでト書きの文体やドラマの短歌が、どのように伊波さんが評するか聞きたいんですよ。

 

滝本

 

 えっと、まあそうね。用意しているので大丈夫です。ト書きということで平易な文章という言い方してたんですけど、多分より厳密に言えば散文的ということで落ちつくんじゃないかなって思うんですよね、短歌ってのは一個の詩ですから、よく言われる詩的飛躍みたいな言い方ありますけど、詩的飛躍って逆の言葉で言うと散文的歩行ですよね。散文的歩行って普通の文章ってことなんですけど、そういう意味で言うと吉田さんの詩的飛躍みたいになれるものじゃなく、ほとんど排除されているという見方が多分可能だと思って、そういう意味で散文的に書かれている。一方で、繰り返し部屋を出て、触れてましたけど、「部屋を出てどこかへ向かう。」これ三首連続して下の句が違っている。この辺は伊波さんどういうふうに取りますか。例えばト書きとして取るか、ドラマとして取るか。

 

伊波

 

 まあ、日常なんですかね。日常って動作の繰り返し多かったりするじゃないですか。それをより強調する意味でこういった繰り返しを使ってるのかなと思いました。

 

滝本

 

 ちょうどその次の64ページの最後の歌ですね、「手のひらを翳してドアが開いた、り、しないので鍵を持って出る。」これ、もう一個の特徴として、句読点の使い方があると思うんですね。特にそれがもろに出ているのがコレだったりすると思うんですが、この辺はト書きっていう言い方だとある意味ざっくりしているんですけど、句読点の使い方はどういうふうに。

 

伊波

 

 句読点の使い方はまさに、ト書きをそのまま再現しているからト書きを使えるのかなって。

 

滝本

 

 え、でもこう使います? 「開いた、り、しない」って使って

 

伊波

 

 そうですね。そこはちょっと演劇のト書きを、短歌に置き換える時のアクセントのつけ方ですね。短歌として成立させようとしている。

 

滝本

 

 散文的に書いていると散文のト書きにしかならないから、あくまで句読点によってしたんじゃないかと。

 

伊波

 

 ええ。多分、そこで論じるべきなのは多分ト書きの文体で描いたコンセプチュアルな作品じゃないですか。そこに少ないですよね。混ぜることによって、ブレが起きるじゃないですか、文体って。そこの是非について論じるべきかなと思いました。

 

滝本

 

 ト書き的なものの中にちょっと違うものが入ることで共振する震えが起きることで違うものが感じられるんじゃないかと。あと舞台装置という言い方をしていたんですけど、舞台装置って具体的にどういうことなのかもうちょっと言ってもらっていいですか。

 

伊波

 

 ワンシチュエーションって部屋を描いてるんですけど、普通に部屋を描いてるだけじゃなくって、客観的な視点を見ている気がしたんですね。それって舞台装置、観客席と舞台の視点に近いのかなと思ったんですね。

 

滝本

 

 そういう意味での。舞台設定みたいなことですね。読み手は観客みたいになって、その前の舞台が広がっていると。私実はこの連作Wintermarktの中でとても好きなんですけれど、ト書きと言うよりは静物画というんですかね。それをいくつも観ている気分になって。もちろんト書き的なところもあるんですけど。静物画の中でも余韻というのを敢えて感じさせない。余韻って情感の放出だと思うんです。そうじゃなくってここにある空気をすべてこの歌の中に凝縮されていく何か別の性質があってそこも面白くて。一旦私朗読会の時に吉田さんがこれを聞いた時にカコンと入ってきて、直に入ってきて。こう言うふうに楽しむというか鑑賞するんだってわかって、そういう意味では朗読と合っている印象があって、印象深いんですけれど、ト書きという一つの見方、題名も多分そうだと思うんですが、その辺に関して堀さん何か。

 

 

 そうですね。こういう形式を使うことで、何度も伊波さんが仰ったように日常生活の繰り返しで使われる言葉が最初の方ですよね。部屋を出てどこかへ向かうのがずっと使われていたりする中で、そうじゃない繰り返しがあって、繰り返しって2回なんですけど66ページの、四首目ですかね、「まだ生きていることを確かめる。」最後から二首目も「まだ生きていることを確かめる。」っていうのは、日常生活でやることでは絶対ないことでそこに不穏さというか全体を引っ張るような不穏な感じがあって、この連作を重層的にしているのかなあと思いつつ私もすごい好きですね。あとは、アスタリスクの前、二個目のアスタリスクの前の「いないときのあなたのことをよく知らない。」と言い切ってしまう感じというの、やってくれる感じだなと思って。そう読みました。

 

滝本

 

 テクニカルなという。

 

 

 ええ、そうですね。

 

滝本

 

 あと、不穏さというのは私も感じるところで、なんとなく書いてること自体は不穏じゃないはずなのになぜか不穏さが臭い出すというか。そういうことで先ほどから吉田さんが仰っているローカロリーでかなりのものをやってるって意味では、普通不穏さってパワーワード的なものに出すのは簡単なんですけど、そうじゃないところで出すのは素晴らしいなと思います。えっと山﨑さんト書きの文体とかワンシチュエーション・ドラマなんて誰でも気づくだろうという言葉あったんで、誰でも気づかないところをお願いできますか。

 

会場

 

 (笑)

 

山﨑

 

 人の、日常行動の恐ろしさみたいなのがあって、人は誰しも自分の自由意志でもって行動をして一日を過ごしているわけだけれども、どこか日常というものが毎回続くと反復される行動となるそれが自分の意思としての行動なのか、あるいはどこかに台本ですよね。台本によって描かれているのかという境界線みたいなのが見えなくなる時があると思うんです。毎日のように同じ日々を繰り返していると。それをそのまま書くことによって、前評者の方、仰ってましたけれどある意味不穏さとか日常に対するわずかなエアポケットみたいなものをこの連作は見られて、この連作は発行者として言っていいのかわからないけれど僕は非常に好きなんですね個人的に。ト書きと仰っていて、ト書きなんだけど全然ト書きの要素は感じなくって、ト書きはあくまでも行動を伝えるわけですよね台本の、台本に演者がこういうふうに演じてくださいって、ところが演者そのものも、ト書きに関わっている。要するにト書きというよりは脚本の部類に入る気がして、だからト書きというのにはどうしても賛成できない気がするんですよね。ト書きを超えている気がして。

 

滝本

 

 それでは堀田さんお願いします。

 

堀田

 

 多分これがト書きというところと、短歌というところと、連作というところと、それぞれそうという部分とそうで部分があると。 ト書きというところでは、確かにト書きの文体であると、あとト書きのように情報量が少ないので不気味さがあるというところが出てくると。でも実際これがト書きかというとト書きには絶対ありえなくって、もうこの繰り返しのリフレインだとか、あなたと呼びかけるだとか、記憶があるとかいう部分はト書きでは書かれない言葉ではあるので、ト書きではないと。ト書きを利用していると。では、短歌かというと、やはり短歌というところを利用していて、例えば音が欠落している三句目から始まる歌があって「部屋には」で四音にしているけれど、これがみんな短歌だと理解していて、これは繋がっているから、ああこれは短歌形式で主にやっているだろうという理解があるということでそれを上手く使っていると。じゃあこれが短歌の連作かっていうと、これも実は微妙だと思っていて、さっき静物画の並んでいるようなと仰っていたんですけれど、これ静物画を並べるというのは昔アララギがそういう連作の作り方をしていて、こっちに来ました、これをこうしましたっていう、本当に内容もこれくらいの内容で、続くというのはあったんです。でもこれを見ると実は時系列でもなくて、ひたすらにリフレインを使うんですね。上の句を繰り返すとか、下の句を「水平な姿勢で横たわる。」を何度も使うとか、つまり逆に言えば全体で一つの詩みたいになっていて、一首ずつはそう屹立しないんじゃないか、相乗効果で短歌の連作として読ませることで実は短歌の連作になっていなくて、一行ごとは短歌っぽいけど、全体で一つの詩になっているというギリギリの部分でやっているよなという。

 

滝本

 

 ありがとうございます。全体で一つの、というのはこれを読む時の一つの視点として大事なのかなという印象があります。そうですね私も静物画を一個一個観るというよりはその画廊、空間にいるイメージがあって、あと一方でこういうギリギリのものというのを我々歌を作ってる方から言うと、どこかでそういうファクターというのが入った上で見ると思うんですよ。ちなみに大鋸さん歌を詠まれない立場からどういうふうに読みますか。

 

大鋸

 

 非常に物語的な連作、連作と言っていいのかわからないですが、先ほど中島さんの文字の大きさがバラけている作品について時間軸で書かれている、すごく意識的に、と言われましたが。で、同じようにここではですね、例えば「部屋を出てどこかへ向かう。戻るとき牛乳のコップを持っている。」というところで思うのは、部屋を出る前はコップがなかったってことですね。そういう不在感がすごくある。それを強調するように「あなたは」という言葉が出てくるんですが、ということは、「あなたは」がいて、私はどこかにいるんですよね。それがこの作品の読みどころというか面白さかなと思います。ロブ・グリエの著作に『嫉妬』というのがあるんですけど、あれに似たような感触を受けました。途中にあるアスタリスクは舞台で言えば暗転、あるいは時間の経過を表しているというわけで、ト書きというか、舞台の型式を短歌としてどのように表現するかという実験のスタイルかなと思いました。

 

滝本

 

 ありがとうございます。ロブ・グリエという名前を聞いて確かにああ、ロブ・グリエだなと感じましたけれども。ヌーヴォーロマンのというかある意味そういうものがなんとなく感じられるところもあると思います。不在感という言葉が出たんですけれど、それはもう一方で、逆に言えば説明の排除みたいなのが強くあって、もしかしたらそれが説明なくポッと出てきたするがゆえに何かしら不気味さみたいなのも際立つというのもあるのかもしれません。

 

主水

 

 僕もト書きという、これがト書きかト書きでないかという話は結構出たと思います。何れにせよこの即物的な描写と、「あなた」という二人称とあと初めを特化してト書きの文脈をベースに置いてみて考えなきゃいけないと思うんです。で、ト書きというのはテクストの種類の中で特殊じゃないですか。二人称小説とか、今ヌーヴォーロマンの話で、心変わりとか相手の「あなたは」「あなたは」と書いてますけれど、でもト書きというのはイコール二人称小説ではなくて、なぜかというと、演者によって空白の「あなた」は満たされない。その時演者というのはイコール二人称小説でいう読み手なのかというと、それはイコールじゃないわけで、コンテクストの内側にいる演者候補誰かが満たす、その数だけ満たされる可能性があるという戯曲というかト書きの性質だと思うんですけれど、ではその中でト書きだけ抜き出した時何が起こるかというと、さっき物語性がある連作だって仰られたんですけど、逆に、その意味では物語性はあるんですけど、物語性をなるべく排除して見えなくしたところがあるんじゃないかって思っていて、だからこれは二人称小説じゃなくト書きだからで、つまりカメラの全能性を制限しているんですね。文芸で何かを描写するときに、カメラは一人称だろうと二人称だろうと三人称だろうと、何でも書きうるんです。その世界に起きたことは何でも描くことは可能なんですけど、ト書きにすることによって、このト書きとト書きの間のセリフとか、実際の物語というのをなるべく排除して二人称カメラなりの制限を作っているんだと思うんですね。「あなた」が即物的にどうにかしたってことしかト書きは指示できないんだっていう制限が効いているからすごく静物的でオブジェクトな感じがするんです。