中島

 

 はい、ありがとうございます。ちょっとオーバーしてしまったので、次に。では私の発表一度目にいきたいと思います。滝本賢太郎さんの連作に関して私から簡単に五分程度お話しさせてください。レジュメの作り方に関して何を指示したかというと、基本的に二、三点ポイントを挙げてくださいと。かつ、一つのポイントに二、三首挙げていくと最大六首くらいになるはずであると。なので、それくらいに押さえてもらえると五分で話せるんじゃないのというようなレジュメ作りをお願いしていました。それに基づいて自分自身も倣うかたちになっています。滝本さんの作品に関してみなさんご覧になられたと思うんですけど、端的に言うとヨーロッパにいる作中主体がですね、友人の作った合法ロリのAVを受け取って、一方で自分自身がドイツでの生活の中で移民であるとかアイデンティティによる揺らぎに悩むという、突き動かされる自分に違和を感じるというのが連作全体にあると。で、ある種のエロティシズムについて描かれているというのが「消費をされる/する/せざるを得ないリピドー」性欲ですよね。性欲について述べているぶんがある。それをこの人の力強さというかかなり技術的な高さというのは喩法の技術的な高さなのではないかなと思います。ここに挙げているのは基本的にエロティックな部分、AVに出てくる描写を使っているんですけれど、「パケ写にはツインテールのをみな子の二人そろつてわびしく笑ふ」というのは普通アダルトビデオのパケットの最初のパッケージになっているところの写真なので、明るく楽しく、あるいはエロティックな扇情さというものを感じさせるものでないと売り上げに繋がらないはずのものを、やはり「わびしく笑ふ」という作者自身認識していると。ということ自体に大きな意味があるのではないか。で、自身の性欲にある種突き動かされる部分もあれば、ある種躊躇いのようなものがあるからこそ「わびしく」という描写があるのではないというふうに思うと、まずはこれ一点目。二点目、喩法として直喩であるとか提喩、全体喩みたいなものが、ちらほらと見受けられるのですけれども、ここで挙げたうちの全体の十首目「あまつさへとうに廃れしブルマーに着替へ小蟹のやうに戯る」という「小蟹のやうに戯る」ってなかなかでてこない喩だなと思うし、なおかつ小蟹、小さな蟹、沢蟹だったりそういう小ささみたいなものも少女たちの図像と同時に重なってくるのだけれども、何か横歩きしかできない制限のようなもの、人間に対して裏側が見えないというある種の一面性でしか捉えられなようなものもこの「小蟹」という中におそらく入っている。で、こういったものから全体に通観しているものはいわゆる西洋に自分が身を置くがゆえの、西洋における神経症的なものあるいは、自分自身におけるある種の繊細さ、そういったものそして実は若さの終焉のようなものを見据えているんじゃないのかなと思っていると思うんですね。例えば「西洋を内より砕く暴力を(巻き込まれたくはないが)諾ふ」であるとか、もう一つは西洋である違和感であるとか、文明の神経症的な様子がそれまでの中に描かれている中に「内より砕く暴力」を「諾」ってしまうような破壊してしまいたくなるようなある種の繊細さが中に内包されているように見えているのではないかと。「風切りの羽根拾ひたりろりこんを病とみなす国の川辺で」という向こうなんかだと本当に少女パッケージみたいなものが持っているとなるとですね、捕まってしまう場合があるんですよね。だからこれが届いた時点でこれ税関で開放されて滝本賢太郎に届くという時点で、税関から通報がいってですねこの人、日本に帰って来れてないかもしれないですね。向こうで逮捕されてね、ロリコンだお前逮捕だってなってね。なっててもおかしくない。なのでそういうある種の繊細なものを、西洋の文明に日本の文化、文化というと、ロリコンは文化というとちょっと極端ですけど、ある種の文物ですよね。文物が送られてきたことに対する違和感、AVを足がかり、テコにしての違和感の表明というのは非常に技術の高いものだったのではないかなというふうに思います。ひとまずこれで五分なんですけど、じゃあ山﨑さんいかがでしょう。

 

山﨑

 

 非常に、作中の主体のその人の生が見えてくる作品、連作だなと思っていて、その辺の面白さが非常にあって、ある意味露悪趣味とかあるいは攻撃性とかを出せば出すほど煩悶する主体の像が見えてくる気がして、ある意味バーチャルなものよりは肉体的なもの、実際に手で触ったものを押し出すことによってそれを自分がどの立ち位置にいて嫌っているのか憎んでいるのかそれでも自分は巻き込まれてしまうという大きなものに対する対峙があったりだとか、そのあたりを面白く読みましたけれども。一番面白かったのは「合法ろり拝受。 さしあたり打つてモカ珈琲を沸かしはじめつ」という歌で、短歌によってあるいは文語調で作ることによってそこに出てくるものを計算した上でさらにこういう距離感のようなものを出したいと感じましたけれども。

 

中島

 

 ありがとうございます。じゃあ吉村さん。

 

吉村

 

 はい。やはりエロティシズムがあるものを見ている自分が見ている西洋の違和という。違和感というものが外界にある対象物に対して感じるものだと思うんですけど、それが自分にも焦点が当てられている、その違和感の持ち方というか視点の立体感みたいなものが何重にもあって非常に面白いなと思って読ませていただきました。

 

中島

 

 ありがとうございます。大鋸さんいかがでしょうか。

 

大鋸

 

 僕は普段小説を書いてまして、こういう会でちょっと退屈しているように見えるかもしれませんが、実はものすごく楽しんでいてですね、言いたいことはめちゃくちゃたくさんあるんですけど、最後に全体的なことをやるということで、今の滝本さんの作品について少しお話をしようと思います。先ほどから話されているように、短歌という型式があって、それに託される内容があるわけですけれども、先ほど山﨑さんが「サマータイム……」で型式に対する意識のことを言われていましたが、僕はこの人の作品を語る上でこそ型式を重視するべきじゃないかなと思っています。というのは、まず型式と内容物があるとすれば、この人の場合はあまりにも内容物が豊かなので、それを短歌に落とし込むにおいて、定型意識がないと形にならない。短歌としてまとめる上での定型というものをこの人は意識しているように感じました。しかも、これを見ると字余りとかパッと見ですけどあまりないんじゃないかと思うんですけど、そういう意識が表れている。

 

山﨑  

 

 字余りは結構あるかなと。

 

大鋸

 

 ありますかね。あるかもしれませんが、ただ、僕はそういうふうに感じました。内容が豊かであるゆえに型式に対しての気の遣いようみたいなものがこの人の特徴なのかなと思いました。

 

中島

 

 先に、伊波さん当てていいですか。

 

伊波

 

 滝本さんの作品を読んで、モチーフは下品なんですけど、作品自体は上品だなと思ったんですね。で、なんでそう思ったかというと、まず文体で、文体からして文語じゃないですか。文語という点と、先ほど中島さん喩について指摘されてましたけど、喩の質が非常に高いんですね。文語と喩の質の高さによって、下品さが中和されている。逆に上品さの中で距離感が喩としての豊かさを生んでいるんじゃないかなと思いました。

 

山﨑

 

 別に内容そのものが下品というふうには私は思わないですけどね。

 

伊波

 

 内容というよりはモチーフのあり方ですね。それが、偽悪的だなと思ったんですね。なんで偽悪的と言ったかと言うと、本質的には悪意じゃない気がして、そういう人が敢えてそういうモチーフを選んでいる感じがしたんですよね。

 

吉田

 

 内容が、モチーフ自体が、人を選ぶようなあるいはこういうことをこういう文体でやればやるほど実はポルノにインしてるんじゃなくって、歌にインしているように見えるところがあると思うんですね。だから、この文体でやってるから逆に言えば何を詠んでも大丈夫だろうっていう意識の顕れとも取ることができるかもしれなくて、これは並べていいのかちょっとわからないんですけど吉田隼人のある種の連作にも同じことを感じるんですね。で、これはレトリックとしての技術力に裏打ちされているある種のこういうプレイに見える。で、それが良いかどうかっていうと、僕はそういうカロリーの高いお祭りは今ちょっと身がもたないんでやらないなって思うけれど、でもすごいなって、遠くの方でカロリーの高いお祭りがやってる、ってという感じで僕は手を振って見送りたいと思います。

 

中島

 

 カロリーが高い祭り。なるほど。

 

吉田

 

 だから舞台がドイツなのもこの辺良いと思うんですよね。日本の固有名詞が入ったら多分その辺もう少し粘っこくなる。

 

中島

 

 確かに、吉田隼人「忘却のための試論」とか角川の受賞作であったりだとか、「忘却のための試論」という歌集はこのシリーズ(編集者註 書肆侃侃房のシリーズ)から出ていまして、表紙がどぎつい帯を外すともっとどぎついというね、確かにそちらとの比較もあるかもしれないですね。彼もドイツ系ですしね。

 

山﨑

 

 フランスじゃないですか?

 

中島

 

 フランスだっけ。フランスか。もう一人いけるかな。堀田さんばかりに当たってしまうけれど、いかがですか。

 

堀田

 

 定型観の話が出てきたんですけれど、私は滝本さんが他の一連を書いて全然違った軽い素材であっても、彼の定型観は変わらないと思っておりまして、その定型観と言っても57577厳格にやっているというわけではなくて「花」でバンと切ったりだとか、字余りだとか「(巻き込まれたくはないが)諾ふ」の句跨りにパーレンがあるとか、そういうのはあるんですけど、非常に定型観を感じると。なんで感じるかというと、それぞれの内容に合わせて文体と、この定型をどう利用するかというちゃんと考えて作っているからではないかなと。今回「Wintermarkt」色々な方の作品を読んでいたのですが、特に滝本さん過不足を感じないですよね。ちょうどこの長さでいい、ちゃんとポエジーもあるし言いたいことも分かるし、この内容この素材だからこれはこういう作り方をしたねとか、だいたいきちんとなっている、珍しいくらいのそういう作品じゃないかなと。