滝本

 

 今、小さい声でって服部さんと見比べた時にすごいわかりやすい。服部さんけたたましくという感じですが、堀さんは静かに語ってくる。ある意味二つともどこかに世界の終末みたいなのを意識しているのかもしれないんですけど語り方は全然違うんですね。自分の中で腑に落ちました。一旦個々のものはこれくらいにしまして、これまでのテーマを引き継ぎながらギリギリというものをまな板の上にあげつつ、先ほどから出ている議論などをもう一回出してしていきたいと思いますが、最初にまずもう一度山﨑さんの方からギリギリというのをどういう意味で設定したのか、私何回聞いてもよくわかんないので、もう一回聞いてもいいですか。

 

山﨑

 

 ギリギリという、冒頭述べたんですけれども、短歌とはなんだろうかということで、それぞれが思う短歌、自分が設定した短歌のギリギリに迫る、あるいは越える越えないということを考えて作りました。もちろんその中には韻律のこともあるでしょうし、一人称のこと、私性のこと、様々なことあると思いますけれども、それを発行人から言うのではなくて、ご自身が設定したご自身の思うギリギリというのを作って、その上で短歌というのが相対化されると思うんですね。それを読もうと思いました。結果として、それぞれが設定したギリギリをテーマに作ってくださいと言われてできたギリギリを、どこがギリギリか読み解くことを評することの楽しさもありますし、その辺は非常に得るものは大きかったと。

 

滝本

 

 読む時も、読者はどこがギリギリなのか考える、という場合によってはこれのどこがギリギリかわからない場合もあるだろうし、乗れなかったらわからないだろうし、でもそれを含めて読みと書きとの両方の一個の枠の中でコミュニケーションをとるという意味合いですか。

 

山﨑

 

 そうですね。だから服部さんは、服部さんがいつも作ってるものがギリギリなんだなと、平常運転なのだなと。それは服部さんのお考え、歌風ですよね。あるいは平常運転でない方もいらっしゃって、それはそれぞれが考えたギリギリという設定したものに対する回答なのかなという気がします。

 

滝本

 

 いつもギリギリで作ってるから、いつも作るものがギリギリであるがゆえに平常運転でいきますって、よくそんな恥ずかしいこというなと思うんですけど

 

山﨑

 

 それは、服部さんに言って。

 

滝本

 

 それはでも、人それぞれのやり方でいいと思うけれど、ある意味私ギリギリというものをそういうふうに捉えた時に、歌の人ってどこかにそういうことを思ってる人が多いと思う一方で、だからこそオフビートというか、散漫さもギリギリになってしまうという、本来それは違うはずなのになってしまう逆転することもありうると思うんですね。それをそういうテーマを設定してしまった時に、我々はテーマの中で身動きが取れるか取れないかが出てきてしまって。そうするとこのテーマが、成功したか私はわからない。

 

山﨑

 

 例えば龍翔さんの写真作品がありますよね。今回は個別に取り上げませんでしたけど。あるいは田丸まひるさんの、田丸まひるさんは短歌作品と仰ってますけれど詞書ととるか詩作品ととるか。

 

滝本

 

 龍翔さんも短歌作品?

 

山﨑

 

 龍翔さんも短歌作品って仰ってますよね。田丸さんも詞書の短歌ととるか詩ととるか、それが成功しているか、あるいはギリギリなのか。ギリギリの現代短歌なのかというのは、検証するべきことかなと思います。

 

滝本

 

 そうですね。とはいえここで皆さんにギリギリとはご自身でどう思うか聞いているとキリがなくなってしまうので、一旦枠組みを広い意味になってしまっているので少し中に入っていかなければならないと思うんですね。そうするときに、コンセプチュアルなものを作らなければ、いけなかった、実際見てみるとコンセプチュアルな枠組みで作る連作が多い。こういう、一方でこうした作り方ではない作り方をするやり方もある。例えば、今までの主水さんとか吉田さんは枠組みの明確さがある。一方で伊波さんも話を踏襲してるけれども堀さんにはそういうのは見られない。ただ、そういう人にしかギリギリって作れなかった時ってそれはどうなんだろうってのがあって。その辺堀田さんなにかありますか。

 

堀田

 

 枠とかの話の前に中島さんと山﨑さんのにコメントするべきことがあって、それは関連するのだけれど、さっき山﨑さんが仰ったのはもっともだと思いまして、「正しさ」が浮いているのかというのがあって、あとはメタならメタでやるべきだとかそういう全体の話をしたんですけれど、今仰ったように一首一首いろいろな意味のギリギリを、例えば破調でどこまでギリギリにできるか、短歌っぽくリズムを置いていくとかひたすらやっているわけで。私はこの「正しさ」のは浮かないんじゃないかと。よくよく読んでいくと歌の作り方がすっごい共通していて、ずっと準備するんですよね、で、一番最後に落とすというかずらすというか、必ずこういう作りにほぼなっている。それで統一感を得られているんじゃないかなと。で一首ごとに山﨑さんのギリギリが試しているんじゃないか。で、中島さんのに思ったのは大好きだったんですけれど、主水さんのとはパロディの種類が違って、中島さんのは視覚詩の部分は重要じゃなくて、中島さんは視覚詩を技法の一つに入れちゃっているので、多分私が同じ内容で作ってもほとんど同じ内容になると思います。それくらい驚きはなくて、二つレイヤーがあって、一つは読者がどこまでわかるだろうという設定があるんですね。これだったら大体の読者はわかるだろう。ここまで読んで理解する人はいるだろう。これは誰もわかんないけど自分としてはここにあげたい。という三つの操作があって、で、パロディも層があって、今回だったら歌自体が何かのパロディなんですけどよくよく読むとさらに詞書自体がパロディそのものになっていまして、二重パロディ三重パロディと。それをフドコまで読み解けるかという読者はどこまでわかっただろうというそういう意地悪なRPGの親玉みたいな作り方をしていて、主水さんの方は逆に意地悪じゃなくて純粋にJKの設定にうまく落とし込んでいる。あんまりこれはわかるだろうかわかんないだろうかと狙っている作り方ではない。

 

滝本

 

 中島さんの方が、全体知識を要求するところが主水さんの場合は分かりやすく提供しているのだけれど、中島さんの場合は、そうではなくてわかりにくいところに散りばめてくるというか。一方で睦月さんがコンセプチュアルに乗れるかどうかという仰っていて、そこのところもう少しコンセプチュアルに乗れる乗れない、乗れなかった時にどう鑑賞するばいいか、あるいは投げるしかないか、そのあたりを聞かせてもらえれば。

 

睦月

 

 そうですね。始めの時点でこういうふうにやられた時に、あ、もう無理ですと心を閉ざしてしまう作品に対して。で、もちろんこういう場に呼ばれたので読んできたのですけれど、既に心が閉じてしまっているので、コンセプトを越えた時に、私がコンセプトに乗らなかったけれど、コンセプトに乗ったとして何が見えるかなっていう頭ではやってるんですけど、果たしてそれって読者の態度として正しいのかっていう問題も結構あって。心を閉ざさなかった人っているのかな、ここでって。だから視覚詩にあるというのはわかるし、私は視覚詩に慣れていないので。でもあるというのはわかっていて、視覚詩がどういうふうに詩に対して貢献してきたかっていうそのものを私はコードとして持っていないので、そこで心を閉ざしていたってことですね。一冊全体の話をしていいですか。結構私、一冊に対して心を閉ざしているんですよね。わかんないんですよね。編集後記初めて気づいたんですけれど読み返して。ギリギリの現代短歌を依頼したって。それまで何度か読んだんですけれど、コンセプトがありそうだけど何をやりたいのかわからないまま来ていて、一人一人いい連作もちろんあるけれど、でも、それに対してどういうふうに集められたのか全然わからなかった。人選とかこの本のコンセプトは何ですって、それこそあとがきに書く以外にも人選って統一とかあるテーマとか読んでいて見えてくるはずなんですけど、この本全然見えてこなくって、何がしたいのかわからない。

 

滝本

 

 本全体のコンセプト?

 

睦月

 

 そうです。それで、心を閉ざすと言いましたけれど逆に言うと読者を試している感じがするんですね。で、そういうことやって欲しくないというか。短歌を大事にしていないんだなって感じがしてしまって。私の反発心をかなり刺激してくる。なので、だからコンセプトに乗れる乗れないってさっきからの、そこでシャットアウトされてしまうような私ですけれど、シャットアウトされてしまった時に、本当はコンセプトの先に内容とかいいものがあるはずなんだけど、そこまでたどりつけないことの悲しさっていうか、そこをどう考えられているのかな、私は編集後記を読んだ時に、ここにコンセプトが書いてるあると知った時にギリギリの現代短歌を読ませてくださいってなんだよって思いましたね。どっちにしても嫌だったんですけど。

 

滝本

 

 正直私も同じことを思ったのでわかります。

 

吉田

 

 方法論としてたようなものが出揃うのですけれど、それに対して、言挙げがいるんじゃなかったのっていう話をずっと前からしていて、それを本来だったら個々の作品のギリギリ感を火花を散らして読みあうみたいなことも例えばできるんですけど。こういうふうに平地の形で行くんだったら、この神輿は何なのかっていう説明がないと、自分とは関係ないものですがっていうところがあったんじゃないかなっていう。

 

堀田

 

 前半でも短歌的というのが出たんですけれど、私としてはコンセプトがある歌っていい歌になってきてそれはそれで。いい歌でなくてコンセプトばかりの歌と仰ったんですけれど、歌の良さという。でも、定義に拠るんじゃないですか。

 

滝本

 

 いや、そうは仰ってないです。入ることができないためにそれが見えなくなってしまうのが残念と。

 

睦月

 

 それはそうですね。

 

堀田

 

 そこが違うんじゃないかな。歌というのはつまり認識によるものなので。どうしても認識の種類が違うと思う。美しい風景に感動した問いう純粋な感動もあれば、本当にものすごい比喩に対しての感動で、服部さんによる比喩の面白さの時もあれば、コンセプトのメタ的な面白さもあれば、韻律的なものの美しさでコンセプトによるものもあれば、いろいろあると思うんです。それを気づかせるための、本であって、コンセプトがあるから歌に入り込めないというのはちょっとわからない。

 

滝本

 

 多分、微妙な差異、これまでの議論を引き継ぐように言うと、睦月さんはコンセプトがあるからというよりは、コンセプトがドヤ顔で出されることが嫌だったんじゃないかという気がして。こういうコンセプトでやってるんだっていうのが強すぎるのがあることに対して、そのことがもう心を閉ざしてしまうということなんじゃないかなと思います。それは一つは仰るように、人それぞれ感受することは違うんだけれども、一方で読者を試すような態度と仰っていて、読者を試すような態度を取られた時に、ある意味読者は馬鹿にされているような感じになる、だからそういうところを言いたくもあるのだと思う。で、歌を大事にしていないと、仰っていたと思うんですね。

 

堀田

 

 そう、私は歌を大事にしていないのは良くないという意味で捉えました。いや、そんなことはなくて非常に歌を大事にしていると思う。

 

睦月

 

 いいですか。短歌観の違いが、短歌に対する感じ方がかなり違うのだなと思って。さっき保守的と言われたと思うんですけど、保守的と言われるとそれはと思う。なんというか感じでいうとリベラル寄りのことをやりたいのかなと思って、リベラルか保守的かという話は違うんですけれど、私はこの誌から感じる思想性の真逆にラディカルなので。私にとって歌は操作可能なものじゃないんですよ。それがそもそも違うので。で、そういうふうに言われるのはまあ、あるだろなとは思ってました。私は。

 

堀田

 

 操作可能なものじゃないってどういうことですか。内容ができないのか、言葉ができないのか。

 

睦月

 

 言葉もそうですし、内容もそうですし。歌は、歌自体が自立しているというか。歌は歌という存在。

 

滝本

 

 なんでしょう。歌という生き物と言いましょうか既にある人間とは別にあるものという。

 

睦月

 

 そうです。そう、私はそういう宗教なので。

 

会場

 

 (笑)

 

睦月

 

 だから違うかなと思いました。

 

滝本

 

 保守的という言葉が誤解を招いたならすみません。

 

睦月

 

 いえいえ。

 

堀田

 

 配列とかは考えないですか? 例えば仮にこれが自然に出るものであったとしても、どこまで自然とかはあるのですけれど、配列を考えませんか。

 

睦月

 

 配列は考えますよ。配列は。

 

堀田

 

 だったらそこにコンセプトがあるというのは嫌だなと、それとも自然な配列みたいなものがあるんですか?

 

滝本

 

 つまり歌がいくつかあったら並べる所に既にコンセプトが出てきてしまうんじゃないかと。

 

睦月

 

 でもそれは歌が先に存在していて、コンセプトが先行していてということで。

 

滝本

 

 どっち先に作るかっていう。

 

睦月

 

 うーん、この話前もした気がする。

 

会場

 

 (笑)

 

吉田

 

 前にも同じような会話を聞いたことがあって、前も同じような袋小路に入っていたような気がする。

 

会場

 

 (笑)

 

吉田

 

 あまり入り込んでも得るものがない、それには入らないようにうまく出て行くと。

 

滝本

 

 ただ一つ、読者の態度を試すようにというのはいてもおかしくないし、全然それは態度としてあると思う。それは、何かしらコンセプチュアルなものを出した時の当然の反応として有りうるんじゃないかなと思うんですね。良し悪しは別として。その辺吉田さんありますか。

 

吉田

 

 はい。で、袋小路の話に戻らないようにして、試みがここにあるということそれ自体は、必要ない人はいっぱいいるわけですよね。例えば睦月さんはいらないと思っているし。で、睦月さんがいらないということに対してそれは勉強不足だからだよみたいなことは誰も絶対に言えない。それは必要か不要かということで。そういう意味で読者を選ぶ雑誌であるということは確実です。なんだけれども、そういう方法論的な作品をしたいような人にとってはいろんな実験精神のオンパレードなわけですから大変面白く読まれるかもしれない。あるいは高校生に読ませて悪い影響を与えるみたいですよね。

 

会場

 

 (笑)

 

吉田

 

 そういう意味でこういう物があることは必要だと思う。受けるか受けないかは別。売り方として、これはギリギリのものですよってもっと強く言えば言うほどここの差異が出てきて、ヤバイもんがここにあるぜっていう炎上商法しても良かったのかなっていう。

 

山﨑

 

 言挙げは、この間別のところでお会いした時に、吉田さんも中島さんも仰っていたけれど、必要があったと思うんですね。つまり、うやむやにしていると結果として読者に対して試すというかどっちでも取れる態度をとることが一番失礼なことで。最初からコンセプトはこうですと、わからない人はわからないで構わない、わかる人は楽しんでいただきたいときっちり言挙げをして、これがギリギリの現代短歌なんですと言挙げをすることはある意味読者を選ぶことになるかもしれない。それはそれで一種の潔い態度だったし、そこは足りなかったと思いますね率直に。

 

吉田

 

 例えば昔のアンソロジーで『現代短歌最前線』ってあるじゃないですか。あれって本当にその当時最前線だったのかなって、今確かめようがなくって、当時の人の話を聞くしかなくって。その辺で言ってしまえば言っちゃたもん勝ちではある。これがギリギリやと言えばそんなんすねってなるから。

 

滝本

 

 そうなってしまうんですよね。

 

山﨑

 

 編集後記をお読みになる前に、コンセプトが解らなかったっていうのはある意味発行人が逃げているわけですよね。要するにきっちり闘わなかった土俵で。だから私たちはギリギリなんです。僕の書いているのはギリギリの現代短歌なんですとこれを提示しますときっちり言挙げしないと、やっぱり買わされて騙されたみたいになるわけじゃないですか。要はコンセプトを立ち上げて売るなら言わないとならない。

 

滝本

 

 寺井さんどうですか。

 

寺井

 

 どう読んでいいのか分からないというのがあって。誌として面白いのもあるし、短歌として面白いのもあるしという感じがして。で、ギリギリの現代短歌というのはこういう小さいところに最後に書かれただけだから、これは前書きにあってとか帯にあったりとか売り方をするときにそれを全面に出ていてくれたら、ギリギリの現代短歌ということで募集してこういうのが出てきましたと、言われたのであるならば、これまで現代短歌を一生懸命読んできて自分なりの現代短歌の読み方というのを積んできた、積んできたというのが正しいのか分からないけれど、それなりのルールを持ってきた人たち、一生懸命写真があげられているものも一生懸命短歌として読もうとやると思う。そこで新しいものが生み出されれば面白いと思うけれど、それをさせてくれなかったというか。短歌として読むのは一生懸命やるけれど、それでいいのか自信を持ちきれなかったというのがすごく不信感を場合によっては持っちゃうところでした。ただ、睦月さんの意見は短歌を不用意に神聖化しすぎだと思う。

 

滝本

 

 睦月さんは睦月さんの表明のほうになってしまって。では一旦そこには入らずに、吉村さんいかがでしたか。 

 

吉村

 

 今日の感想みたいになっちゃうんですけれど、私は今宮城の山奥の学校で先生をしていて、今日読んだものをどう生活に返していいのだろうというのが、途中からすごく混乱してきて。誌上で行なわれている実験というのはすごくギリギリではあるんですけれど、それ、本当にどう生活に返していっていいのかわからなくって。ギリギリの迫り方として、観念的なことで行われているのかなと今日すごく受けたので。身体性だったり感覚性だったり、

 

滝本

 

 ギリギリでやる意味はあったのだろうかというのもそこにはあるのでしょうか。

 

吉村

 

 いや、ギリギリというコンセプトでやるからにはギリギリでいいと思うんですけれど、それの迫り方というのが結局観念的なものに終始したものしかなかったんじゃないかっていう。

 

滝本

 

 なるほど、それは確かにあると思います。土井さんどうです?

 

土井

 

 ギリギリというとどこかに線が引いてあって、ギリギリってどっち側のギリギリかわからないけれど、線の近くを狙ってダーツ投げているような節があったと思うんですけれど。多分、この雑誌に限らず思い切り破調のものがある場合に、これ短歌とは思えないのはダメだよと言うのが結構あって、短歌界隈あると思うんですけれど、この雑誌に関して言ってもギリギリというテーマ設定したならギリギリから外れちゃって分からなかった人がいるからこそギリギリで短歌でありうるわけで、この雑誌とか一つ一つの作品に関して分からなかった人ってすごく大事なことだと思うんですよね。

 

滝本

 

 全員が分かるんならギリギリじゃないじゃないかってことですよね。

 

土井

 

 個々の作品について言うなら、中島さんの作品を詳しく見て面白いと思うのももちろん正しい読みなのでしょうけど、これは没頭して読むというのがこの作品にとって本当に正しい読み方なのかなという気はするんですね、ギリギリと言った時に誰かに踏んで欲しい地雷のようなところがあって、地雷を踏んだんだっていう叩かれぶりを見てあげるという、もちろん失礼な言い方になってしまいますけれど、正しい読みなんじゃないかなという気はします。

 

滝本

 

 ありがとうございます。撤収の時間が迫ってまいりまして、6時までに机を片付けてでないといけない。議論は尽きませんがそれは二次会の方でということで。長丁場なところみなさんありがとうございました。

 

会場

 

 (拍手)