滝本

 

 はい、ありがとうございます。カメラ、ロブ・グリエなんかもカメラ的に書いていると言われますし、二人称というのが出ましたけれど、私ここでなんとなく思いつきですけれど横光利一が提唱した四人性という、第四人称という純粋小説論、ああいう新しい全く違った目線というのは思いつきですが感じます。では、ちょっと一旦切りまして。私の、西巻さんの方に移りたいと思います。先ほどの立体鏡の続きなんですけれども、西巻さんの歌も立体鏡的に見ることができるんじゃないかなと思いまして、その場合中島さんのほうとは違う見方が必要になってくると思います。でもこちらの方こそ二枚の微妙に異なった写真を置いてそれを覗き込んで一個の立体空間を観るようなそういう形になっていて、それがsideAsideBという形で構築されている。sideAの方は一見するとわかるように、旧仮名で文語体、でsideBが新かなで交互をメインにしているというふうに見えます。で、さらに読んでいくと一見するとsideAの方は生活実感を基調としていて、Bは抽象度の高い観念的な歌、という見方が一見するとできるんですが、だから最初に挙げた区分で言うと、Aの方は肉体の目で見て、Bの方は精神の目で見て紡がれた歌というのが、できるとは思うんですが、けれど本当にそうであろうか。そこの質問というか疑問から始めていきたいと思います。というのは、sideAのほうの生活の手触り触覚的なと書きましたけれど、ここで挙げました身体感覚が多いんですよね。身体感覚と言ってもちょっと特殊な身体感覚で、「生活は鍋の形をしてゐたり洗つても洗つても次が来る」この生活を鍋の形に捉える一つの触覚あと「この街に土あることのあたたかさ 素手でしつかり握るおにぎり」この素手でしつかり握るおにぎりというところ、さらにいきますと、「病名を告げられし日のとほのきて土の上では人として在る」この人として在るというこの感覚、身体感覚を見ていくと触覚によって目の前の現象をなんとか掴もうと、掴んで把握しようとする意思が強いと感じられる。で、しかもそれは生活を鍋の形で捉えたりだとか、人として在ると捉えたりだとか。こういうところを見ていくとどれも、歌の中の中心には観念が強く出てきているんじゃないかと思います。実際生活を鍋の形で捉えるとか、人として在るとか観念として捉えているのがすごく強いと思って。なので、現象を捉える意思そのものというのが根底にあって、その意思でなんとかして、意思が手を伸ばすような感じで、自分の目の前のこととか生活とかを把握しようとする。そんな精神の歌であって、触覚によって整えられているのではないか。sideAの一旦の感想はこういったことになりまして、ではsideBの方はどうなんだろうと見てみると、Bの方は口語を使って軽やかに歌っていると見えるんですけれど、実はこの感覚って深くAよりも根の深いところの身体感覚がかなりあるんじゃないかなって思います。で、この身体感覚っていう身体というより生理的な部分の感覚だと思いまして、例えば引きましたけど、「ひかりがとても豊かだ」ひかりを豊かだと捉えるところだとか「ぼくは二つに引きちぎられて」という捉え方ですよね。生理的、もっと言えばプリミティブなところでの感受にあたるんじゃないか。これはもう身体そのものの触覚おう直に感じてしまうようなところにあるんじゃないか。すると、このABは読む方向性、歌を紡ぐ方向性というのは実は逆にあって、Aは観念とか精神が身体の方に働きかけて現象を読んでいるんであって、Bはその逆で生理、身体感覚よりも肉体感覚よりももっと原初的なものが精神的なところに向かおうとしている。一見すると得られる感想とは全く逆のところがあるんじゃないか。で、そうなった時に読者は二つの立体鏡を覗き込むようにABを統一した統合したものを見る、覗きこんだところで何かしらの視野というのが得られるんじゃないか。その時中島さんの方は散漫な、散漫は別に悪い意味じゃないです、散漫な目で追ってある意味半眼みたいな感じで見ることを要求されたのに対して、こちらは覗きこんだまま集中してみない限りその全体像が見えないというかむしろ集中して見れば見るほど全体像がクリアになる。そういう意味でこの試みは、成功しているんじゃないかなと思います。立体鏡的には中島さんよりもわかりやすくなっていると思います。その上でもう一個通奏低音的に色々モチーフがありまして、それが飛行であり同時に墜落の予感というものがあると思います、sideAにもsideBにも両方に表れているんですけど、飛行というか空を見ていることで飛ぶことへの目というのがかなりあるんですね。で、一首目が「未帰還のサン・テグジュペリ うなさるる夜のまにまに浮び上がり来」とありまして、サン・テグジュペリって、空を飛んでそのまま行方不明になって、おそらくはどこに墜落をして死んでしまった。『星の王子さま』の作者であり詩人・小説家ですが、飛行をどこか墜落とか未帰還とか失敗の色彩に染められてしまっているのですね。そのことに対して目を留めていくと、また歌の決意とか切羽詰まった感じが見えてくるこれが次に引いた歌「空中に(たい)を預けるあやふさを思はゆ床を離るる度に」私この歌がABの中で一番好きなんですけれども、生きること、起き上がることがそもそも「空中に体を預けるあやふさ」の中にあって、それはこの流れで見ていくと飛ばないまま飛ぶことみたいなそういうふうに見える。飛ばないまま飛ぶことに身を置くことであって、それはさらにもしかしたら飛んでもいないのに関わらず墜落をする。そういう危険に身をさらすことそのものであるのではないか。ただこの決意は、この人は静かに受け入れることによって、歌を作っている。そういう手触りを残すことによって、それを意識しているんじゃないか。それが、際立って見えるのが特にこの一首、AB通じて一つの核になってんじゃないかなと思います。その上でBのほうですけれどさらにいきました「飛びたつときゆっくりしなる蝶の翅 ぼくは詩歌を諦めずいる」これですけれど、飛びたつときの蝶の翅ってある意味細かい目でなんですよね。それは今までここの流れから言うと失敗しない飛び方というのを蝶に見たくなってしまう。そういう気持ちが垣間見えた。蝶がどういうふうに飛ぶんだっていう飛び方は成功するか多少期待を込めて見ている私が見るときって。それと同時に下の句「ぼくは詩歌を諦めずいる」ある意味どちらかというとカロリーの高い下の句になると思うんですけど、この下の句というのは明らかにテグジュペリの未帰還の飛行とは違う。その上で試みとしては成功すると思いつくのは、Bの方は、どこかしら甘さがあると思って、この甘さというのは一方で作者の普段作っているタイプとは違う、Aのほうで作っている方だと思うしそれでBの方を試みでやったと思うんです。そこで、出来不出来を問うのは酷というか、試みとしてみるべきだと思うんですけど、その上であえて言うとすれば私は「空中に体を預ける」というこういう歌を、視点を貫いて欲しかったというところもありまして。ここのところで、「ぼくは詩歌を諦めずいる」という最後の飛立つ方に流れないでほしい。失敗してもいいから飛行をしてほしい。という期待を、「空中に体を預ける」が好きなので、言ってしまいたくもなるのですが。大体こんなところですが、そうですね、sideAsideBと明らかに違うモチーフを使った違う要素で作る一つの試みとしては面白いと思います。このあたりに関して寺井さんどうお考えでしょう。

 

寺井

 

 そうですね。sideAsideBで旧仮名文語がsideAで、Bが新仮名口語を基調とすると書いてあるのでそういう留保が付くくらいで強烈にコントラストがあるなという感じでもないなというところが、それでタイトルは「歌体論」というところで歌の見た目とか姿に拘っているんだというところを出していて、そこがちょっと不徹底というと言い過ぎになるのだけど構造を見きれないところがあるなという印象を持ちました。で、sideAsideBで裏面と表面みたいな感じで対比させていることは明らかで、それで滝本さんが指摘されているように飛行とか墜落のモチーフというのがこちらにも見られるので、もう少しコンセプトを際立たせるというかもっと対応を明らかにするともう少し楽しめたのかなという気がする一方で、普通にコンセプトを離れて「空中に体を預けるあやふさを」とか、ギリギリの現代短歌とかそういうコンセプトを離れて普通にいい歌だなと思う歌がたくさんあって、そこは兼ね合いが難しいなとそういうところですね。

 

滝本

 

 ギリギリの方は後半戦に取っておくとしまして、そうですねABと分けているんだけどもそこに差はあるかないかというのは一つ重要な見方になってくると思うし、しかも「歌体論」、歌の体、文体というか歌い方にある意味拘ってる意思が強く見える。この辺に関して岸原さんどうでしょうか。

 

岸原

 

 歌われている内容でかなり違っているところがあって、Aは病気と生活と「私」が描かれているんですね。Bの方は「君」と「僕」と詩歌というのが描かれていて、だからBの方が相聞的な歌が多いので、その点でかなり味わいが違ってくるんじゃないかなという気がします。

 

滝本

 

 確かに、病気、生活、「私」、昔のアララギみたいな感じもありますけれど、その一方で違うものを詠んでいるB、確かにこういう対比も生まれてくると思います。その辺今までのことを踏まえまして、そうですね睦月さんどうでしょうか。

 

睦月

 

 そうですね、sideAsideBで、(空調の音のため聞き取れず)対比はわかって、それ以上の対比はどこにあるのかなと割と最初意識しちゃったところがあって、一首一首順番にsideAsideBと。それ以外のところはそこまで意識されているように見ることが難しくて、この「歌体論」というタイトルの話、文体によって出てくるもの歌われてくるものはどこが違うって不在じゃなくて文体が連れてくるものが違ったんだと思うんです。それが一つ元々あってそれをもう少し読めればという気はあって、普通にいい歌は多いなという感じはあったので、あ、いい連作だなという時点で止められたならというか、コンセプトに乗れないとか読めないとか言っちゃう人間なので、この連作いいなという思いというのは嬉しいですね。

 

滝本

 

 わかります。それ以上の対比があるのかないのか含めて、ある意味コンセプチュアルなところもあるけれどコンセプチュアルじゃないという強さはそこまでないと読み解くこともできるし、例えばABで、一首目に読んだ歌をBの文体で歌ってというのはないから、もちろんそういう方法でやることもできたし、必ずしもない、ないというのもアレですけれど、こういうコンセプチュアルなところから吉田さんどうでしょうか。

 

吉田

 

 はい。そうですね。今たまたまゲラの状態で刷ってきたんですけれど、割と上下で見てみるとモチーフの連関とかで色々探し物はできるかなと思って。それはsideAの一首目とsideBとか、そういう全体としてのモチーフから様子を拾っていったりだとかで鑑賞しやすいと思います。その鑑賞がやりがいがあるのは、一首単位での秀歌性が高いからということがあって、一首がここの良さはここでという説明がすごくしやすい、したくなる感じの良い歌がいっぱいあるというところで読みでがあるのは良いと思っていて。sideBの歌を詠む「わたくし」のナルシシズムみたいなとこは、多分これが単体で来たら僕は乗れないんです。そういうことを言ってしまえることに対しての無防備さみたいなのが少しでも臭うとそれが鼻につくんだけれども、それがsideAがあることによって緩和されるようなところがあって、で、これ僕の主観でしかないんですけれど、歌を歌う「わたくし」のことを言いたい、人のために歌ってあるんだね。というふうに思っちゃうとその時点で、がっかりしてしまうのも、このABで私性が、歌の数が二倍になるぶん私性が二分の一になってるんです。っていう薄めているような感じが成功してるんじゃないかな。試みとして。スタイルとして決まってるんじゃないかな、と思います。

 

滝本

 

 「わたくし」という部分が、二つのキーになってくると思うんですね、ABの同じ人が歌ってるけど違うと。歌を詠む「わたくし」へのナルシズムって確かにBって分かりやすく出てるんですけど、私、結構Aの方もそういう意味ではあると思うし、ただAの方が言葉で言えばある意味覚悟とかそういうもので支えられているというところもあると思うんです。時間も迫ってきましたので詳しいことは後に回すとして、最後伊波さん。堀さんのを。