滝本

 

 やっぱり、パワーワードというのは感じないむしろずらしの方に力点というか技巧を感じるということですよね。それでは一旦ここで時間の関係もあるので、伊波さんの方に。

 

伊波

 

 はい。今回僕、三人担当したんですけど主水さんと吉田さんのはコンセプトがしっかり見えやすくて語りやすいんですけど、堀さんは一番語りにくいので最後にさせていただいて、まず主水さんですね。主水さん「JKSS」という作品なんですけど、世界観がまずコンセプチュアルだなと思ってどこがコンセプチュアルかって言うと、ライトノベルとかアニメのような世界観を構築しようと思って作られている、で何か例を挙げると「世界をおほいにもりあげる短歌の倶楽部略してSOT部といふらし」ってSOT部って出てくるんですけど、ご存知の方も多いと思うんですけど「涼宮ハルヒの憂鬱」で、SOS団ってのが出てくるんですね。何かそういう設定から作り込んでいらっしゃるなっていう印象を持ちました。多分、この作中主体って現実とはリンクしていなくてライトノベルとかアニメーション的な感じで登場人物みたいな感じで作り込んでると思うんですよね、それが配置していって連作として展開していくっていうスタイルなのかなって思いました。で、その中で次の歌ですよね。「先輩のおひめさま抱つこは方舟ですか」という歌なんですけど、これ多分女子校っていう設定ですよね確か。なのでこれって百合的な、百合とか言うんですけど女性同士の同性愛の作風ですね。そういうのライトノベルで非常に多く出てくるんですけどそういった世界観を構築したいのかなってのがまず一つ出てきました。で、もう一つメタ視点っていう視点があるんですけど、要はメタ視点ってどういうことかと言うと、漫画とかで登場人物が病気になったとしますよね、漫画の中で。そうすると、病気には気をつけないといけないねたとえばこの漫画の作者も痛風らしいよとか、そういうのよくあるじゃないですか。で、それってどういうことかと言うと漫画の作品の外側にある神とか作り手がいるってことに匂わせるってのがメタ視点って呼んだりするんですけど、それもこの作品の視点として特徴として挙げられるかなと思いました。で、具体的には例えば、「殘り十四首あへなく絶詠」とか、残り十四首ってことは、作中の人物はこれって認識できないわけじゃないですか、この世界に存在するわけだから。だけどそれを外部に神イコール作者がいるよって匂わせるっていうのが特徴かなって思いました。で、最後これですね。「かういうときはつづくつて云つておけばいい」とか、これもなんか外に神がいるっていうことを、読者が認識してないとこういう視点は出てこないですよね。なのでそういった二つの特徴が挙げられるかなと思いました。

 

滝本

 

 ん? 以上?

 

伊波

 

 はい。

 

滝本

 

 二、三分だなあ。

 

伊波

 

 でも結構語ることが少ない。

 

滝本

 

 はい。メタ視点の方で、ちょっと確認なのですが、作品の外に神としての作者がいると、それで、「うたふとふしあはせ」の方でここのところがメタ視点になることを理由として引いた理由をもう一度ちょっと。

 

伊波

 

 残り十四首っていうのは、これって作中の人物はこういうことって分からないじゃないですか。

 

滝本

 

 作中の、人物? というのは?

 

伊波

 

 人物というのは、要は作中主体ですよね。

 

滝本

 

 ああ、はいはい。

 

伊波

 

 作中主体は、なんだろう。自分、人生があったとして、自分が何年生きるってわかんないじゃないですか。だけど、これはメタ視点、外に神イコール作者がいるからわかるわけですよ。

 

滝本

 

 んー。でもどうでしょう、「死にしゆゑ」って過去形なので、どうでしょうか。

 

伊波

 

 あれ、そこ僕読みきれてないのかな、そしたら。

 

滝本

 

 もう死んでしまって、残り十四首でということでは。

 

伊波

 

 あー、でもそこの時間軸って作中主体は認識できないですよね。作中から。

 

滝本

 

 はい。今までの指摘の中で世界観というのが一つのこれを読んで感じることですよね、ラノベ的、アニメ的という。

 

伊波

 

 もう一つ補足していいですか。

 

滝本

 

 あ、はいはい。

 

伊波

 

 タイトルなんですけど、「JKSS」というタイトルなんですけど、JKって多分女子高生ですよね、女子高生ってネットのスラングでJKって言ったりするんですけど、あとSSってこれ違うかもしれないですけど、よく漫画とかアニメの二次創作する人でSSってショートストーリーっていうのがあるんですね。だからJKSSは要は女子高生のショートストーリーっていう意味なのかなって思いました。

 

滝本

 

 そういう意味でも創作的なことが強いということですよね。設定から、先ほど設定という言葉があったように、女子校であって作者男性であるわけだけれどもこの中では女性として詠んでいる主人公というと変ですけど女性として設定されていると。で、短歌部というものがあって、しかも死んだりもすると。そういう意味で普通に男性が女性に代わってある学園生活を詠んだとはまた別の世界ということが言いたいんだと思うんですよね。で、もちろんこういうのが出てくると短歌としては、若干手垢のついた議論として、なんで本人のことではないのかってそういうのが出てくるとは思うんですけど、そこんところに敢えてある意味極端なくらい作って詠んでいるわけですよね。その辺に対して寺井さん何かありますか。

 

寺井

 

 そうですね、これを最初に読んだ時は、先行するいろんな表現を引いてきているなという感じがして、例えば最初に徒然草の引用があって、一首目も「命みじかしうたへよ乙女」で始まって、SOT部もそう、ライトノベルもそうですし、その次の次の「けふはみんなにちよつと詠みあひをしてもらふ」というのは「バトルロワイアル」だと思うし、あと「白桃を食べちやつた」というのも、(斎藤)茂吉で桃を食べちゃったという(編集者註「ただ一つ()しみて置きし白桃(しろもも)のゆたけきを吾は食ひをはりけり」)歌ありますよね。そういうのをどんどん既にある表現をどんどん連れてくるという感じがして、あんまり創作的なというかゼロから主水さんが組み上げたっていう感じがあんまりしなくて。既にあるものから色々とつまみ食いというと言い方が悪いけれど、色々引いてきたなという感じの印象を受けました。で、それが寄り合わさって話の、ストーリーの、展開をあまり読みすぎるのは良くないかもしれないけれど、歌を作るっていうことは、殺し合いみたいなものというか、のっぴきならない状況で言葉を紡いでいくというのは、自分の存在を賭けてやるものだなというメッセージなのかなというような、感想になっちゃうんですけれど、そういうことを思いました。

 

滝本

 

 はい、ありがとうございました。つまみ食い的、まあ悪く言えばと仰いましたけれど、別の引用の織物みたいなそういう気障ったらしい言葉もありますけど、そういうふうに作ってる。ある意味それが、知っていると反応ができる。小ネタを挟む感じかな。そういう意味でも二次創作的なというか、そういうだから私は作り込んでいる感じというはすごく感じたんですよね。そこも含めてライトノベルというのは、私読んだことないけど、そんなイメージがあって、そこも含めてライトノベル的なのかしらとどこかで思っていたんですけれど、実際小説を書いている身として大鋸さん何かありますか。

 

大鋸

 

 これ、あの、主水さんいらっしゃるんですよね。いや、話に聞きながら、主水さんなにか言わないのかなと思っていたんですけれど。

 

滝本

 

 一応、作者は、あの、

 

大鋸

 

 あ、そういうあれなんですよね。この会自体が。

 

滝本

 

 そうですね。作者は発言をしない、評されている時はできないというか。

 

大鋸

 

 そういうルールみたいなものがあるんですか。

 

主水

 

 配慮って、する場合としない場合があるんで。ここまであんまりしてないからとりあえず黙っておこうかと。

 

大鋸

 

 なるほど。

 

滝本

 

 あんまり種明し的になってしまうのもあれなので。

 

大鋸

 

  はい、ありがとうございます。イメージの借用というようなことは、小説でもやるんですが、それが短歌に活かせないわけはないということでやられているんだと思うんですけれど、これはこれで面白いんですが、結構。質問していいですか。先ほどのメタ視点の「うたふとふしあはせ」(編集者註「歌うと不幸せ」というアクセントで読み上げている)という。

 

滝本

 

 これは、どっちに取りましょう?

 

伊波

 

 ん?

 

滝本

 

 これは「歌うと不幸せ」というのと「歌うという幸せ」という「とふ」と。

 

伊波

 

 僕は、歌うことは幸せだという。

 

滝本

 

 「とふ」というので古語的に「という」という。

 

大鋸

 

 歌うという幸せ。

 

滝本

 

 と、彼は取っているのだと。もちろん「歌うと不幸せ」という取り方もある。というか多分両方考えて作ってるのかと。

 

大鋸

 

 その辺はどうなんですかね。

 

滝本

 

 え、作者に?

 

大鋸

 

 え、まだ、えっと聞いちゃダメなんですか?

 

滝本

 

 ちょ、ちょっと後にしましょうか。えっとじゃあメタ視点ということを挙げられて出てきたので、そういうのお好きなのかな中島さん。

 

中島

 

 そうですね。まさに今まで仰られたことについて挙げることは、何か加えることは特にあるわけでなく。そうですね、実際思い浮かべたり見ることによって実際短歌らしさみたいなものに対して疑義を提示していつつ、まさにJKショートストーリーのように現実に落とし込みやすくわかりやすく、それはまた露悪的と言ったらちょっとアレかもしれないですけど偽悪的なのか露悪的なのか、そういうちょっとポップなものに見せかけて読ませているっていうのはテクニックなのだろうなと思うんですよね。で、ある種の転換点として「テキストテキストテキストテキスト」というのがあって、多分これを四回繰り返すから、全部で百二十四音になって、三十一回テキストが繰り返されるということで、ちゃんと完結するというミニマルミュージック的なものがあったりだとか。で、その前後でどの程度変わるのかなと思ったら、特に大きく変わりはしないんだけど、おそらく「殘り十四首あへなく絶詠」あたりからもう一回テキストに対する疑義というものをもう一回ひっくり返して再提示するっていうのがここの盛り上がりとしてあったんだろうなと。盛り上がりというよりはむしろ暗転に近いくらいの、下げ落としくらいのですけどね。あとは、そうですね。メタレベルというの過去の例えば『Herbstvilla』も同じような、あるいは『未来』の月詠なんかでも結構メタレベルでの疑義の呈し方というのはチャレンンジをされていて、主水さんの試みとして非常に理解はできるなと、すみません、いうところです。掘り下げきれないですけれど。

 

滝本

 

 堀田さん、何かありますか。

 

堀田

 

 特に付け加えることはなくて。一連が本歌取りとか引用とか出てくるんですけれど、どこまで作者は読者が元ネタを知っていることを想定しているかというのがちょっと面白い部分ですね。一は確かに私も元ネタはわかって、で、わかればわかるほど当然面白いとは思うんですけど、これ、ほとんど、この世代以外の読者はわかんねえだろというのも散見して、そこの難しさというのも挑戦しているのかなと。

 

滝本

 

 そういう意味でのギリギリもあるんじゃないかと、中島さん仰ったテクストへの疑義ということと、堀田さんの元ネタのことを私含めて考えること。どこかで引用の方に行くというのはある意味逃げ道になってしまっているのかなと危惧というかそういうとこも感じはするのですが。こう言う設定から作った短歌を作った場合、当然の反応として、特に保守派のほうから、そういうものに意義があるのかという。フィクションとして作ることにそもそも意義があるのかという。意見が出ても当然だと思うんですよね。むしろ、だからこそ彼は作ったのだと思うし、もしこういうところにどこに意義があるのかって疑問を今そこに、勝手な演出だとは思うんですが、疑問をそこに、こういうものを作る意義がわからないとか、なぜこういうものを作ったのかという、何か立場から意見ってありませんか。

 

中島

 

 想定される意見っていうのはね、何がしかあるんでしょうけど。実際引用のものをここまでやることだとか、あるいは先ほどの遠野さんの事例もそうですけど、女性っぽい「さなぎの議題」含めてある種の女性像的なものを建ててそこに自分自身が成り代わった上でもう一度世界を仮構してみたいな。こう作っていくというのが非常に、小説であればまだしも一人称的に読まれがちというかその程度にしか長さのない短歌という分野においてやることがそれほど有意義なのかってのはもちろんある。その上で引用ってこと自体もそれも中途半端であるとか、もちろん玲瓏(の會)であるとかいろんなところで成されたことであるではあるけれども、それがその元ネタというものが、ライトノベル的、例えばSOT部もそうですけど、みたいなものに、もう一回言及すること自体が、ちゃんと短歌という世界に対してのテキストに対する疑義にはなると思うんですよ。でも、歌壇に対する疑義として、問題が成文化されているか。文章として提示される文章になっているかというと、それがあやふやな状態に見えてしまうんだと思うんですよ。見えてしまうってのはあくまでも場が共有されていないっていうか言語が共有されていないから、それはモヤっとしたものに見えてしまうのであって、問うていること自体はなんら間違ってないし、実は伝統的な問い方だと思うんですよ。ただそれが成功するかと言ったときに読者というものをどこに想定し、どこに仮想敵であるとかどこに敵を用意しているからこそこれがちゃんと刺さるんだよというのを聞きたいのが大鋸さんの問いでもあるんだなと捉えました。

 

滝本

 

 まとめていただいてありがとうございます。

 

中島

 

 いえいえ。でも多分ダヤ(吉田)くんも得意だと。

 

吉田

 

 そうですね、こういう形式を使って何かやってみせるというやり方自体がそもそも読者を選ぶというところがあるわけですよね。要するに、何だろうな。採算の取れないラインに投資して連作一個立ち上げなきゃいけない。ていう時にその実験精神そのものは意味があるかないかって、意味はあんまり無い気がしちゃうんですよね。でも、なぜやるかっていうところに作家性、作者自体のエゴがあって、そのエゴ自体が、だから作品を褒めるんじゃなくってチャレンジ精神に拍手みたいなふうにともするとなってしまうので大変だよなっていう。何か他人事のように。で、その中でこうやって議論することに意味があるとしたら、ここは面白いと思った、ここは面白いと思った、って断片的でもいいから読めたポイントを集積していくしかないんじゃないかなって思います。で、コンセプトに関して幾つかメタレベルの操作の仕方にグラデーションがあって、例えば「テキスト」とか、ここで効いているの効いてないのって色々言えると思うんですよねというところで、色々やろうとしていることが過剰すぎるんじゃないかなって気も個人的にはします。