中島

 

 なるほど。ありがとうございます。大鋸さんもある種このような定型意識のことの話と共通するところがあると思います。ひとまずこれで15分なので一旦ここで序盤の三名を終わりたいと思います。次に、山﨑さんの伊舎堂さん評にいきたいと思います。では、山﨑さんお願いします。

 

山﨑

 

 はい。私、今回担当が伊波さんと伊舎堂さんで、二人を比較してまず考えてみようかなと。先ほど伊波さんの作品を「創る」ことに重点を置いて作っていると、いらっしゃると。伊舎堂さんは、「発見」あるいは「共感性」の高い連作だろうというふうに感じました。その例として、「すごい近くのけっこうでかい首も長い鳥 なんだろう、幸せだ ウケる」という歌がありまして、今SNSInstagramあるいはTwitterとかのキャプション、ありますね写真の下のところ。それが多くの人がファボりたくなる。実際こういう鳥が映っているとして、それを切り取ったように発見をしたと感じました。で、この一字空けのところというのは、いくつかある中で「これは、あ! ウケる!」って、それを見た人の、リアクションの間隙ではないかというふうに感じました。これは非常に、脈々と続いている短歌の、発見の瞬間を切り取るある意味王道でもありながら現代に昇華しているというところに非常に面白いと感じました。次、「作中主体の世代感や等身大の著者の感じた世相がにじむ」ですけれど、これが社会詠として回収されることはなくって、自身の肉体性を持ったまま生々しく迫っている感じがいたします。で、「お風呂から上がってきたら忍空か幽遊白書がやってる日本」このお風呂というのが、自分がお風呂と言っているよりも「なになにちゃんお風呂入りなさい」「なになに君、お風呂入りなさい」のお風呂。保護者とかそういう人が言ったお風呂というものを言葉としてもう一回、取り入れたうちで使っている。そういう感じがします。それによってより、そこでの場面感を読者に与えることができる。で、「を」やってる。ではなくて、「が」やってる。子供とか例えばドラゴンボールがやってる、幽遊白書がやってる。この「を」と「が」微妙な選択の差が少年性を私は感じて、「を」だと、幽遊白書「を」やってるだと、主体との心理的距離が遠い。幽遊白書なるものを、捉え方を距離を置いて、捉えているものと感じます。それを含めて作中主体の地域というのがどこに置かれているのだろうと考えた時に、漂流する少年性みたいなもの、それは永続性を持っているところに立ち位置は常にあって、例えば少年ジャンプや深夜ラジオというのは、連載陣は変わりますし、読者も少しずつ変わりますけれど、少年ジャンプが規定している読者層というのはそうは変わらない。深夜ラジオも、例えばオールナイトニッポンとかも、聴いている世代というのは限定されている。そうすると、瞬間を切り取っている歌であって、では消費されるのかというところを、いや、これは短歌としての歴史性永続性みたいなものをこの歌は保持しているがためにそこですぐに消費されることなく、文脈として読み継がれていくことができる歌だなと、いうふうに感じました。それを考えると、伊舎堂さんの歌の持っている作中主体のビート感、フィルターというものを出すことによってそれがそのひとの独自性を持っているがために消費されることなく短歌の、現代に通じるものとして更新されていくことができるのではないか。この瞬間を切り取った短歌は「共感性を帯びたまま鮮度を失うことは少ない」と書いたんですが、昔のリズムマシンとかはリズムが少しヨレていて少しずつヨレている中での、気持ち良さがあるんですけれど、一台一台ビートというものは違う、アナログなので。それが伊舎堂さんにピタッとはまった時に、ヨレとか揺れとかではなくて、心地よさと感じるその絶妙なバランスというのが実は、名詞とかではなくて助詞とかごくわずかな語句に集約されているとそういう感じがいたしました。以上です。

 

中島

 

 はい、ありがとうございます。んーちょっと微妙にわからなかった、終盤のところがイマイチピンとこなかったんですけれど、一字空けが色々とあるよねと、そこで、作者自体の呼吸感と、読師者側の呼吸感も合わせられるよねと。そこに、いわゆるグルーヴみたいなものが生まれてくるんじゃないのずっとリズムがカチカチカチとデジタルに時報の音のように決まっているものではなくて、そこにちょっとした前後の揺れ、呼吸の揺れのようなものがあるから、この歌って面白いよねって認識?

 

山﨑

 

 はい。

 

中島

 

 で、いいんですか? わかりました。

 

山﨑

 

 少しヨレたり揺れたりしていることを計算しているというより、そうなったものをそのまま作れる強みみたいなものが、あって。つまり、敢えてそういうデジタルのマシンでぴったり合わせるんじゃなくて、アナログのリズムマシンのように少しリズムが揺れていることに読者がシンパシーを抱くことも計算して作られてるんじゃないか。共感性を得ることに。ある意味絞ってると思うんですよ。読者を。対象を。

 

中島

 

 ごめんなさい。なぜか私は山﨑さんの評がイマイチピンと来ていない、のでちょっと滝本さん今の評を聞いていかがでしょう

 

滝本

 

 私もあまりピンとこなかった(笑)

 

中島

 

 実はこの前に、いろいろと山﨑さんがこの会をどうするという打ち合わせをしてて今日はどうやら山﨑さんのチューニングがずれているんじゃないかという話を永遠してたんですけど、ごめんなさいちょっとピンとこなかった。

 

吉田

 

 内容面での共感と、韻律の上での話を区分けして考えないと、いけないと思うんですね。で、そういうところが混ざっておっしゃられてる感じがして。このまま喋っていいですか。

 

中島

 

 もちろん。

 

吉田

 

 共感の歌だというのは、一首単位で見るとそういうポイントがあるかもしれない。連作の中で幾つかファボがつくのもあるかもしれないですけれど、通しで読むと、特殊な視座を持った作中主体の連作になるんですよ。瞬間、瞬間で、同時代的なものとか世代的な懐かしさで同意はできるあるいは思い出して懐かしくなる共感するというのはできるわけですけれど、それを通しで見た時に、キャラクターとして立ち上がってくる(伊舎堂)仁がいるみたいな。(「手紙魔」)マミ」の中の括弧書きの歌みたいな、グロテスクさがあって、そこが面白いところだと思うんですけど、特異なのはそれに対して、地の歌だけで一般化しないところがこの連作の共感に見せかけて、全然共感に最後持っていかないある種の暴力性みたいなのが出てくるんじゃないかなと。

 

中島

 

 前半と後半とのつながりがパッと見えてこないというのはおそらく心理的距離というのが山崎さんの中にもブリッジの箇所だったと思うんですけれど、あとで聞くとして、「手紙魔マミ」の話が出たんで睦月さん。

 

睦月

 

 はい。マミが今の文脈で出てくるのがよくわからなかったんですけれど。

 

吉田

 

 特異な発言をする人がいるくらいの、キャラクターとしているくらいのニュアンスだと思ってください。

 

睦月

 

 出てきちゃうもの、ということですかね。なんとなくそれは分かります。私、伊舎堂さんの作品に対して、全然何一つ評する言葉を持っていなくて、ずっと。分からないんですすごい。ただ、何でわからないのかなと今思いついたんですけれど、伊舎堂さんは非常に定型とかそういうものじゃなくて短歌の短歌たらしめるものという非常に抽象度の高い短歌的なものというのに非常に反発しようとしている感じがして作品を見て。だから短歌性みたいなものを、避けて書いているからここに書かれているものはとても短歌だと思うんだけれども、読者である私からこれを短歌であると見た時に何を言うのかわからなくって。私はこれに対して言えないのと、山﨑さんとかダヤ(吉田)さんがおっしゃっているところ、ところどころ何となくピンとくるところはあったんですけれど、ただ、この連作良いなとは思いました。嬉しくなる連作で。この冊子全体の話は最後にするという話ですけど、この中に入っているということの納得感は高い連作でしたね。

 

堀田

 

 私は逆で、結構短歌的な人だと思っていて、同時代的なアイテムを使っているということは別にどうでも良くって、ちょっと一昔前だと藤原龍一郎さんとか彼の世代は固有名詞を大量に詠んでいるし、私の世代だと笹くんが山ほど昭和ノスタルジーを使っていて、その次の世代で幽遊白書とか出ている、そういうのはあるんですけれど、彼のがどこがすごい短歌的かというと、定型を利用しまくっているんです。これが結構「問題 地震があったのは」というのがここに出てこなかったら誰も短歌と、ここに出ると「問題」この後の字余りが一字空けが、ここに一音入ると読者は意識するわけです。「地震があったのは二〇一三年の三月である」と、やっぱり57577を基本としたリズムで頭に処理されるんじゃないか。あと、冒頭の「読んでみて ね?」というところもここに一音必ず入るあと、「農薬の」非常に短い歌なのですけれど、これも「農薬を洗い流せてなかったら 言うね」で、ここに出て来なかったら「言うね」で終わっちゃうと思うんです。ここに出てくるから「言うね」のあとの欠落を歌人たちに思わせる。これは決定的に短歌の型式を利用している。逆手に取っているんじゃないかなという気はしました。

 

睦月

 

 それが短歌的であるとは私は思わないですけれど。それ以外の。

 

堀田

 

 なんでだろう。定型を揺さぶることで人工的な短歌を思い出させているところが、あと文体的な語りかけというのが特徴で、「ね」とか「あなた」とか。多分半分以上が必ず相手を想定していてという話しかけですよね。この二つが特徴的ではないかな。

 

中島

 

 ここについては、お二人の話はとりあえずここまでにして、ちょっと滝本さんに。

 

滝本

 

 お二人の議論に対して、加わる感じなんですけれど、私も堀田さんと同じように、両方ともわかるんですよ、で、いわゆる短歌的なものへの反発じゃないかっていうのは、確かに一見見えるんですけれど、その裏、意識というのは裏に、言い方悪くなっちゃいますけれど甘えというか、ある意味定型というものに戻る、要は定型への反発というのは定型への意識が強くないとやりえないことだと思うんですよ。さらに結局のところ定型に足が掬われちゃっているところが、やっぱりさっき仰られた「読んでみて ね?」とかこういうところに表れているんじゃないかな、という意味で私は、堀田さんの仰った定型を利用している、利用というとそこを自分のものにしているところがありますけれど、どこかで利用しているのか、利用できているところまで自立できて、作者ができているか私は疑問を感じる、ところです。

 

中島 

 

 土井さん。

 

土井

 

 最初に伊波さん、山崎さんの発表に、伊波さんと伊舎堂さんの対比のように出していて、で、私もここに来る前に伊舎堂さんの作品に対するある種のイメージを、そうそう、と思ったんです一行目を見て思ったんですけれど。伊波さんも作りこむ人なんですよね、山﨑さんの発表を聞いて、やっぱり伊舎堂さんの方も作りこんでいる感じがあって、まずInstagramのキャプションのようだと仰ったこと、すごいそうだし、定型という軸で、この連作を考えようとする、のが定型という補助線でのひき方が正しいのかどうかという疑問が僕は今ちょっとあって、今日皆さんのお話を聞いていて、伊舎堂さんの作品って短歌的なのだろうなと思って、それは多分定型とかということではなくって、その、

 

中島

 

 内容面ということの。

 

土井

 

 うーん、Instagramのキャプションのようなというのも、Instagramは写真が主体なので、小さいスマホの画面の中でも収まっている感じって短歌に近い、サイズ感があるんだと思うんです、それを短歌という枠組みにぶち込んでこようとしているとすれば、短歌というものへの意識があるのかなと