滝本

 

 後半をぼちぼち始めていきたいと思います。後半司会をします滝本と申します。よろしくお願いします。後半のほう簡単に説明しますと、七人ほど扱っていきます。進み方は今まで中島さんがやったような感じで踏襲していきますけれど、最後に約30分くらいを使って、前半後半含めた今回批評の対象になっていない方含めてすべて一冊としての『Wintermarkt』、だったりあるいは議論の総括だったり、皆さんと論じたいテーマであるとかそこに30分ほどまとめの時間をとります。では伊舎堂さん。

 

伊舎堂

 

 「うれしい訃報」二三川練。をやっていきます。全体として、感じたのは太字にしましたけれど、パワーワードということで、二首目の「新婚を告げるあなたの臓腑(はらわた)に堕胎の鈍くすずしい名残」四首目の「感傷」ですとか、七首目の「うつびょう」「私生児のまま」というふうに、浮いて見えるんですよね。こう言うふうに浮いて見えるパワーワードが、だいたいどの短歌にもあるのが二三川さんの連作かなと思います。四首目の「感傷」というのはなんていうか大掴みな、「感傷」という言葉を解いて一首の短歌にするくらいの感じなのに、「感傷」と言っちゃうんだ、どこかしら不用意なところも太字にしました。なんでしょうね、「堕胎」「うつびょう」「私生児」に共通しているのは、仲の良い友達とではない人の、親戚のおじさんとかとのレベルの遠さの人との雑談で言ったら気まずくなる、場が。というのを短歌に入れ込むってのはお互いリスキーなんですよね。読者も気まずい思いをさせるということで。気まずい思いをさせた上で、うっとりさせる何かがないと、片手落ちになってしまうと思うんで。片手落ちになってしまうパワーワードの使い方が不用意なんじゃないのかなって、というところを感じました。語彙レベルの強さ以外にもある、主体のナルシズムというところに移るんですけど、十二首目「明日も誰かの命日となれ 客席の千のナイフへ曝す疵口」の、何でしょうね、「千のナイフ」もだいぶなんですけど、「客席の」というところに、自分を観てもらってるという主体の何か意識が強く出てる、「千」ってところ。で、それが自然なことかなと思うんですけど、千人の観客に観られていてしかるべきだというわたくしだというナルシズムもあるかもしれない。次の十六首目も、「足元の粒子の歪み踏みぬいてさよなら僕のきよらかな水」という「きよらかな」とか。で、三十首目最後の一首はもう全体的にナルシズムだなって。「僕は背を向けて儚む 鈍麻した雨に都会の酔いはさまされ」ってもう説明したくもないくらい美意識がムンムン来てるんですけど、で、何が言いたいかっていうと、美意識もパワーワードもその先にある読者への恩寵とか読み味の良さのために、スパイスとして使うってのはまあアリなんだけども、ただ置いただけになってるのかな。で、三十首連作の中の三十首目が読者がゲットできる恩寵のようなものだと僕は捉えているんですけど、それでパワーワードとナルシズムを通り抜けた三十首目がパワーワードとナルシズムの「あなた」で、「あなた」ってのは作中主体と捉えてもいいですし、二三川練と取ってもいいですけど、である場合読者は何を取り分にすればいいのか。客席じゃねえぞ俺らはって、俺は客じゃねえぞって、思う、強さ、反発心が集まってくる連作なんだけど、で、この連作がどういうふうにしたらいい味になるのかなあと、思って「ずらし」ってチャプターがありますけど、そっちの言葉遣いもしくは捻れは、かなり面白いもんだと思うんですよ。六首目「飛び降りで死ぬ日があって首吊りで死ぬ日があって豚のベーコン」死ぬ日があったらその人は死んだわけだから、別の死ぬ日がある、ありえない。「死ぬ日があ」る、他人の死因の話をしている一首と捉えたい、なのに「死ぬ人がいて」ではない。「死ぬ日があって」、このずらしに希望を感じる。八首目「霧雨に洗わせている血の眼 薬のように言葉を吐くな」、「薬のよう」「な」「言葉を吐くな」ではないんです、「薬のように言葉を吐くな」だと、「ように」が「吐く」にかかっちゃうと思うんです。ってことで何かずらしを感じる語で。で、これが別に瑕じゃない。こっちが希望なんです。ナルシズムでもパワーワードでもない、何か作品に感じる希望がここだから二三川さんはここをここばっかりを伸ばしていけば良いんじゃないかなあと思います。で、以上です。

 

滝本

 

 いくつかまず確認をしたいんですけど、パワーワードって「堕胎」とか、ちょっとまあある意味、人前でむやみに言えないような言葉を特徴的に二三川さんは詠んでるってことと、もう一つ四番の感傷ですね、こういう大掴みな不用意な言葉もパワーワードに入れたっていうことでしたけど、これをパワーワードとして、例えば「うつびょう」「私生児」「堕胎」と同一の場に置いた伊舎堂さんの理由についてちょっともう一回聞かせていただいていいですか。

 

伊舎堂

 

 そうですね、感傷と言われた時に、それは作者の感傷であるかもしれないけど、読者の感傷ではないっていうところで。いや、勝手に決めないでくれる? って鼻につくってところで、根っこに、おんなじ感情に行ってしまうってところで。

 

滝本

 

 あの、伊舎堂さんの発表で面白かったのはまず一つ、反発心というのをこの歌の連作に対してご自身としてあると。その上でその反発心を観ていって腑分けした時に一つはパワーワードがあって、もう一個ナルシズムがあると。この二つの特徴が見出せたということだと思うんですね。例えば、パワーワードのリスキーとか気まずさを誘発する、それも不用意に置かれているということだったんですけど、この不用意ってのは特徴としてポジティブに取れてもネガティブに取るということでいいですか?

 

伊舎堂

 

 ネガティブに取る、です。

 

滝本

 

 わかりました。この点に関して誰か「いや、私はそう思わなかった。パワーワードはそう思っていない」という考え方もしくは今言いたいという方いたら挙手か何かで。では堀田さん。

 

堀田 

 

 私はまず、ナルシズムは悪いことじゃなくって、むしろ使い方が良ければ積極的に使うべきだと思っていて。特に中部短歌会、春日井建、もうね、兄弟弟子の水原紫苑さんとか、(黒瀬)珂瀾くんだとか、基本的にパワーワードとナルシズムが山のように。一応それが必ずしもコケるわけでも全くなくて、バランスと遣い方じゃないかなって思って。伊舎堂さんが今日挙げた例だけでも、良いのと悪いのとがあって、一はちょっと言葉が浮いているなとかね、ちょっとこれはやりすぎだろうとか、逆にこの言葉結構効いているんじゃないかとか。こういったナルシズム面白いよねって、そういうこともあるかな。あと、彼は「月光」とかも入っているのでやっぱり福島(泰樹)さんの影響もね、結構「ぼくの」とか「千のナイフ」とか使いたがるのは、やっぱりそれは作風として見てみるものじゃないかな。

 

滝本

 

 そうですね。私もそこは、先ほど確認したのはパワーワードやナルシズムを使うことをこの人の特徴と思って、そこのところの了解から読んでいくか、伊舎堂さんにとっては不用意さ、不用意にやりすぎているというところで彼(伊舎堂)はネガティブに取ったわけですけど、そうじゃなくってこの不用意さというのも含めて、こういうのを使うのはある程度どの歌人にも、歌人ってナルシズムがないっていう人いないと思うし、パワーワード使いたくないって人、使わないで作るって結構難しいと思います。どうしても使わざるをえない時にやっぱり、技巧とかも出てくるけれど、好みもありながら不用意さやそれをどう感じるかということになってくると思うんですが、こういうところを受けて秋月さんどうお考えですか。

 

秋月

 

 僕は割とパワーワードみたいなのが来ても歌の要素だけ取って割と抵抗ないタイプなのね、それはなんていうの、塚本(邦雄)の門下から始まって、あの人は強い言葉をやった人だったから、今は加藤治郎の元に身を寄せてまして彼も、そういうタイプだと思う。

 

滝本

 

 割と抵抗は感じない?

 

秋月

 

 割と。素直に。うん。いい歌なんじゃないかなって思いますけどね。

 

滝本

 

 パワーワードって別の言い方だとカロリーの高さみたいな言い方になると思うんですが、それで吉田さんどうでしょう。

 

吉田

 

 はい。私はローカロリー派なんで。そこはいいです。これは、連作の評としては不適当なことを今から言っちゃうんですけど、二三川さんもう少し端正に作るんですよね。で、これは結構恣意的にリミッターを外して、パワーワードって多分本人の自覚として派手な語彙を突っ込んでいこうみたいな作為が見える。これちょっと比較している時間が余裕がないんでアレなんですけど、というところで過剰に語彙を持ち込んでいく、実験性みたいなところで、今回のギリギリにアプローチしているんじゃないかな。この連作に対してはそう思いました。で、良いんじゃないかな、それはそれで。

 

滝本

 

 パワーワードとこればっかりでアレですけれど、ずらしという先ほど説明にあった言葉のずらし方ですよね。前半の方でも発見と創作という言葉もありましたけれど、ある意味ずらしから発見することもありますよね。このずらしとか言葉の遣い方に対して主水さん何かあります?

 

主水

 

 そうですね確かに。伊舎堂さんの前の『トントングラム』の批評会でもずらしについての話が確か鴻上尚史の文脈であって。普通の文脈からずらしていくって話だったと思うんですけれど、伊舎堂さんの「希望がある」というのは、僕も概ねは同意なんですけれど、言っちゃえば前半パワーワードに関することは同意なんですけど、ちょっと曖昧なところがあって、結局どんなふうに希望を見出しているのか。これを具体的にどう使っていくのかという話がないので、結構僕も今コメント正直し辛い。

 

滝本

 

 わかりました。結構伊舎堂さんの先ほどの発表だと何でしょうね、多分伊舎堂さんの中で歌の感受するというか歌を読んでいた時のある一定のところでの快不快のはっきりしている上でああいう発言だったと思うし、その上でだからこそずらしという方向性を見出したと先ほど仰っていましたけれど、どっかで伊舎堂さんの読むスタンスにかなり近づいてきている気はするんですよね。その上でちょっとお聞きしたいんですけど、恩寵という言葉を使ってらっしゃった。あれはどういう意味なのかもう一度詳しく。

 

伊舎堂

 

 そうですね。カタルシスと言い換えてもいいのかな。「堕胎」「うつびょう」「私生児」と見せられた甲斐があった何かが欲しいなと。引き換えなんですよね。

 

滝本

 

 これだけ出されても困る、と。

 

伊舎堂

 

 そうですね。困っちゃう。

 

滝本

 

 例えば山﨑さんなんかどうですか?

 

山﨑

 

 非常に面白く読んだ連作でして、パワーワードという一つのキーワードに対して、その言葉の持つ、単語の持つ強さみたいなものをかなり打ち破ってお作りになったので、これが二三川さんの設定したギリギリ。つまりどこまでが、快不快を越えて言葉の強さみたいなもの、ある意味暑苦しさみたいなものを広く提示をしてそれが受け入れられるか実験をなさったのかな、そのように捉えました。

 

滝本

 

 先ほど吉田さんが仰っていた普段はこう作らない、今回はわざと入れ込んだんじゃないかって、それを聞くと一個の主題のギリギリというところのどうそれに対応したのか見えてくる気はするんですよね。そう思って見た時に、太字で浮かび上がってくる言葉たちというのを我々どう受け取るかっていうのはまた変わってくるかもしれないです。

 

吉田

 

 ただ、逆に無理して使ってるような気がするから、この恩寵がないんですよね。

 

滝本

 

 ある意味、題詠とまでは言わないけれど、ちょっとそういうところは出てきちゃって。

 

主水

 

 だから伊舎堂さんが結構ローコストに新しいイメージを作ってるっていうずらしの方が、こう、なんだろう、経済的にいいんじゃないかって。

 

会場 

 

 (笑)

 

滝本

 

 短歌経済論みたいな。

 

秋月

 

 僕は割とパワーワードってのはそんなに自分には感じない。だから、むしろ六番の歌の方が、ギリギリ感は感じるかな。