伊波

 

 堀さんの「こんにゃく畑でつかまえて」というやつなんですけれど。まず、会話口調の導入ですね。これ、敢えて口語と書かなかったのは、口語よりは会話口調だと思ったんですよ。で、どこかというとまず「ゆこうよ」の「よ」とか。「ぼくはゆくから」とか、会話的な歌が多いんですね。その辺は特徴かなと思いました。あと反復のリズムというのは、さっき服部さんのところでやりましたよね。リフレインが多用されているって。服部さんとの違いは、服部さんは切実なリフレインと切実じゃないリフレインというのがあったと思うんですけど、堀さんの場合はすごい切実さを感じたんですね。「知りたくて知りたくて」とか、「振り向いても振り向いても」とか、感情とか動作の反復みたいなところ、それは切実さのある行動に結びつくリフレインが多いかなって思いました。最後「心象風景の表出」って書いてあるんですけど、例えばこれってすごい超現実的な風景だと思ったんですよ。「大きな泉、小さな泉きみの言う想像上の二つの泉」ってこれってなんか超現実的な風景なんで多分主体が二人いるとしたらその心象風景の描写でそれって二人の関係性のことかなって思いました。関係性っていうのを心象風景で表現しているのが特徴かなって思いました。次の歌もそうですね。「僕らの舟」って言ってるんですけど、これってまさに関係性みたいなのを象徴しているのかなと思いまして、実景ではなく心象風景を関係性を心象風景として描いてるのかなと思いました。これ、最後に扱った理由なんですけど、主水さんの連作とか、吉田さんの連作って、すごいコンセプトが明快でしたよね。例えば演劇とかライトノベルとかアニメーションの境界線が存在してたと思うんですけど、これってなんかこの本の中に置かれた時に、別にコンセプトじゃなくてもいいんですけど、もうちょっとポイントがあるといいかなあって個人的には思いました。はい、以上です。

 

滝本

 

 そうですね。まず一つ、コンセプトというのはちょうど伊波さんが扱った他の二つがかなり濃そうに作られていたのに対して、堀さんのには明確なコンセプトは見られなかったと。で、仰っていたのは最初に難しさがあると仰っていましたが、それはコンセプトがないからこそどう評していいのかこの枠組みの中での難しさ?

 

伊波

 

 本の中で置かれた時に難しさが、この本の中にあるという。

 

滝本

 

 これ、確認なんですけれど、心象風景の表出のところ、「大きな泉、小さな泉」とありますけれど、これをどう読むのかもう一度この流れからこの一首に関して聞かせてもらっていいですか。

 

伊波

 

 これ、連作というより歌の読みみたいになってしまうんですけど、心の状態みたいなことかなと思いまして。泉ってのは。心の状態ってのがあって。で、多分二人の関係性の中でしか成り立たない基準だと思うんですよ。この泉の大きさや小ささって。

 

滝本

 

 泉は比喩みたいにあって。

 

伊波

 

 そうですね。要は二人の心の状態みたいなのを泉で言いたいのかなと。

 

滝本

 

 二人の間でしか通じない言語だけどもそれが歌になっている時に、それは直接表せなくても詩的なパワーが表出しうると。

 

伊波

 

 そうですね。

 

滝本

 

 心象風景として表れた時に我々どう判断するかというところですかね。わかりました。次の歌なんかそういうふうに見るとある意味明確に見えてくることもあるかと思います。あと、反復のことを切実さと仰っていて、確かに服部さんは先ほどのリズムからや反復から見ていくと具体を距離を縮めてさらに具体でいう問いう喩が結構あったと思うんですけど、ちょっと違うんですね堀さんの方はやっぱり。どちらかというと感情が対に置かれるというか培養みたいな、言葉で言えばこちらの方が切実なのかなと思います。心象風景の表出という見方に関しては、私はそれでまとめてしまっていいのかなというのがあるんですけれど、それでは堀田さん。

 

堀田

 

 この一連のテーマというのは、世界の設定と境界というのがあって、まず自分の世界、あなたの世界、二人の世界、どちらも属さない世界、そして現実のものの世界、それぞれがあって、それぞれの境界部分を見定めるのが非常に大きいのかなと。だから「エンドロール」とか「物語」とか出てくるし、「世界」とか「岸の向こう側」とか、必ず見極めたり揺らしたり、視点を持ってくる連作なんじゃないかなと思います。

 

滝本

 

 多分、伊波さんが言っていたコンセプトというのはもう少し。

 

堀田

 

 心象風景を出してきたとの違いかな。

 

滝本

 

 彼はそこで見落として見えなかったと思うんですよ。

 

伊波

 

 テーマというのは明確に見えるんですけど、例えば心と現実の世界の境界線を描く連作って他のところでもあるじゃないですか。そういった意味で本の中に置かれるポイントってことですね。

 

堀田

 

 でも、ここでは誰かの心象風景を描いているのとは違うんじゃないですか。

 

滝本

 

 確かに仰る通りで、ここに、多分本の中でっていうのはギリギリという。

 

伊波

 

 そうです。そうです。

 

滝本

 

 ただ、そこに見立てた時にどういうふうに見えるか、で、ただ連作として見れば堀田さんが仰ったように確実に見えるわけで、そこをどうするかというと議論変わってしまうんですけれど、一旦連作の鑑賞の方に戻っていくと。秋月さんどうでしょう。

 

秋月

 

 破調の使い方が非常に巧みだなと感じて。最後にあるところ「色彩の世界にどうも居心地が悪くしかし僕らの舟は壊れた」ここが速くなる感じが韻律的に心地いいなって。最初の歌は初句が欠落していると読みました。そのことにグッと切迫感が来るような感じがとても良いなと。

 

滝本

 

 今日、覚えた言葉でドライブ感というのがあったんですけど。

 

会場

 

 (笑)

 

滝本

 

 すごくあると思います。会話口調の導入と敢えて口語ではなく会話口調と言ったのは多分、そこの韻律的なこともあるわけですよね。

 

吉田

 

 この会話口調と言った時に、それが発話としてのリアリズムかと言うともはやそういうふうに口語のものと取れないと思うんですよね。だから、ニューウエーブっぽさみたいな、風に、ある意味文体としての既視感が出てくると思う。それはリアリティのある発話かということと根本的に違って、「ね」とか言っちゃうことはもうみんな出来ちゃうっていう前提があって、それがリアリズムに基づかないことは作品の悪さには繋がらないです。むしろ、そういう意味で口語短歌として豊かな連作だと思う、連作に対しては思うんでそこは良いと思うんだけれども、会話口調というのが会話としての口語としてはもはや取れないんだなあっていう最後詠嘆で締めちゃうんだけど、ものだなあ、という。

 

秋月

 

 つい先週、俳句の「船団」というグループの詩と短歌と俳句、口語について話してきて、そういう感じからすると伊波さんのこれは口語ではなく会話口調というのはちょっとあんまりよくわからない。これなら書き言葉じゃないかな。

 

滝本

 

 むしろ書き言葉として作られている口語ということですかね。この辺りについて中島さんどうでしょう。

 

中島

 

 僕は、吉田さんの発言に同意で。基本的には会話口調的に構成されたものだとは思います。

 

滝本

 

 確かに吉田さん、ニューウェーブっぽい既視感と仰っていて、それはそこのところを踏襲することが悪いことではもちろんないわけであって、先鋭化したというところにこの作品の一つの見方はあると思うんですけど、その上で、書き言葉なのかどうなのかというところに拘らなくても、むしろ拘らない方がいいと私は思いますが、土井さんはどうでしょう。

 

土井

 

 伊波さんの感覚はわかるような気がして、停滞とか不全なのかもしれないですけれど、人が二人いて「僕」とか「君」とか、結構出てきますけれど、そういう距離感がこの連作は特徴的というか、一貫しているところがある。それが会話口調であるように錯覚させるようなところがあるのかなと気はしました。

 

滝本

 

 距離感の表出していくというのは一つのだとすると、会話というのは聞く人、喋る相手を前提とするので、会話的なというのを見ることは可能ですよね。全然違った視点で見てみたいのですが、伊舎堂さんに聞いてみたいのですが、「金色の穂をなぎ倒す」とか「僕らの舟は壊れた」とか、ある意味パワーワードとは言わないまでも詩的な意味での大きい言葉はありますよね。この辺をどうとりますか。

 

伊舎堂

 

 もう少し外側にあるところから喋ると、(下北沢の)B&Bでこの『Wintermarkt』のトークイベントがあった時に、服部真里子さんが登壇されてて。ギリギリの現代短歌と発注を受けたんだけど私はいつもギリギリだから平常運転でいきました。ってのがあって、それはわりかし本当のところの本音だと思うんです、みんなの。俺いつもギリギリだしみたいな。で、今回『Wintermarkt』を読んで吉田さんが一番好きだったですけど、それじゃないところでやっぱり強いのは服部真里子だなと思ったんですよ。で、次点は堀静香の「こんにゃく畑でつかまえて」というところにあって。なんだろうな、パワーワードなんだけど、この中に置かれて中島さんの連作とか主水さんとか吉田さんのを見た後に見ると、いやこれはこれで強いよなって思ってくるんですよ。で、「僕らの舟は壊れた」っていうところも徹夜した三時くらいの脳みそで読んでみるとなんでも面白くなってくるみたいな感じで、「舟は壊れた」くらいのが一番ギリギリなんじゃないかって。パワーワードが効いてるパワーワードになってくるんです、「舟が壊れた」くらいの、もうめちゃくちゃ悪口ですけど、見たことあるオールドスクールの短歌のやり方が、むしろ最先鋒というとあれだけど、で質問の答えになってますかね。

 

滝本

 

 パワーワードとは私もその意味も兼ねて聞いたんですけど、ある意味言いかた悪いけれど手垢のついたよく使われている表現ではあると。ただ、それを伊舎堂さんの考えだと力あるものをどんどん出してくることで、別の新しい何かを出してくる、夜中の三時くらいのテンションというのはちょっと捉えきれないんですが。

 

伊舎堂

 

 そうですね。失礼しました。

 

滝本

 

 そういう時にギリギリという枠の中で、敢えてギリギリじゃないものというのは失礼かもしれないけれど、そういうものをどんどん出してくることで逆にギリギリになっちゃうんじゃないか。

 

伊舎堂

 

 そうですね。そこを割り切って、開き直ってお仕事をしたのが「こんにゃく畑」かなと。

 

岸原

 

 いいですか。パワーワードという単語それ単体で見るというそういう見方もあるとは思うんですけれど、私はこの連作を読むと、音が少ないですよね。無音で、単音で、モノトーンで、その中に微かな光が射しているようなそんな感じがして、全体的に終末観が漂っているんですね。なので終末観の漂っている中に「僕らの舟は壊れた」とか、「金色の穂をなぎ倒しながら」という言葉が描かれていると、そんなパワーワードという感じはしないんですね。親和性があるから。連作の中のトーンの中でそういった言葉がどういう位置付けで置かれているかっていう考えをしないと否定的には全然捉えることはできない。私はとてもいいと思いました。

 

堀田

 

 結構語彙を絞ってますよね。ひたすら同じ意味、それを繰り返しているので、たくさんのものを詠んでいるとは感じないし、言葉もパワーワードという感じは出ないですよね。

 

岸原

 

 全体に冷ややかで、静かなんですよ。

 

堀田

 

 私はこの中では結構立っていると思って、この一連は。世界のギリギリみたいなところを。

 

吉田

 

 それはやっぱり語彙が少ない、語彙を敢えて制限しているところで、例えば服部さんなら派手な喩でひたすら殴るみたいな作り方をしてくるんだけども、小さい声で言われているようなところというので、世界観に没入させやすい点ではすごい効いているのじゃないかと思います。