中島

 

 ありがとうございました。主水さんの話はきっと全体に関わってきそうなので後に回していいですか? ラストに。次に、堀さんの発表で、服部さんの。お願いします。

 

 

 服部さんの連作で三つ考えて視点を出しました。一番は多分そうですね、これ皆さんでディスカッションする時間が長い方がいいのかなと思ったので一番は簡単にいきたいと思います。巧みだなと思うということで四つ挙げました。ちゃんと共感に戻ってくるんだけども思いつかないというか。思いつかないけれどちゃんとああそうだなと思わせる比喩として巧みだなと思いました。例えば、四首目なんかは気持ちの良さがあるなと思って、「吹き抜けの建物を愛するように」と。愛する対象は「七月」であると。七月という連作の初めが「七月の朝」と始まっているところが、夏が始まるという爽やかさを感じるような収斂させられる一首なのかなと思いつつ、一番はいいですかねこんな感じで。で、二番はリフレインのことを言いたくって、「切実な、あるいは切実でない」って書いたんですけど、ここちょっと考え直してみて、どういうリフレインなのかなと思って、切実でないというのは言い過ぎたかなと思ったんでここで訂正したいと思います。もっと別なことなのかなと。ここでちょっと、皆さんご存知かもしれませんが、穂村さんの『短歌の友人』の中で出てくるんですよねリフレインについて。ちょっと読むと、リフレインの歌を、引き合いに出していて、東直子さんの。それで、例えば「私はいずれも出口を求めているように感じられる。」とか、凶暴な他者とのコミュニケーションを、「暴力的に求める会話じゃないか」っていうふうに言っていて、ここで比較じゃないんですけど、リフレインの歌が三つあったので取り出してみて、一首目と三首目は多分ダイレクトに、要求するような、他者にダイレクトに要求するような「見せてその一度きりの加速を見せて」とか。「夜をください」「冷たい洗濯物をください」というふうに求めていることがはっきり分かるんですけど、これは切実なのかということと、二首目の「眩しすぎるものを堪える友だちのブリッジ、夏の果てのブリッジ」このリフレインは、切実ではないと思うんですけど、どういう種類のリフレインなのかなと。私は疑問に思いましたというところです。三番は、「他者との距離感、絶妙な人称把握」としましたが、「作中主体の「わたし」と絶妙な距離感を保つ「君」「あなた」そして「わたしたち」という対象の把握。」があって、例えば「欄干にもたれて君の煙草の火見ている海の日イブの夕暮れ」っていう一首は、イブの日、海であるという認識の仕方、それが君との関係性に表れているのかなと。「海の日」じゃない、その日の前であるということと、「君の煙草の火」というのがうまい関係性になっているのかな。二首目の「神を信じずましてあなたを信じずにいくらでも雪を殺せる右手」というところは、どうなんですかね、あなたをめっちゃ信じてないのか、それともその裏返しでめっちゃ信じているかちょっとよく分からないですがそういう、めちゃくちゃ近いのか、めちゃくちゃ遠いのか、あなたに対する距離感。最後は「わたしたち」というところで、これはある種の無敵感のようなものが表われているのかなと思って。「雷の声で話すのが好き」というのが割と強いなと思って。それは「わたしたち」というのがもう無敵であるという感じを私は感じましたが、この「わたし」と対象である「君」や「あなた」、「わたし」を含んだ「わたしたち」という人称の把握というのがポイントかなと思って取り上げました。以上です。

 

中島

 

 ありがとうございます。「「わたしたち」の無敵感」って服部さんの歌集を含めて全体を評するにはすごい良いフレーズな気がしますね。もう一つ、リフレインの部分に関しては、穂村さんの見解のリフレインの効果というものを、一元的に捉えて良いのか。『短歌の友人』に対しての疑問の提示という印象を持ちました。

 

中島

 

 吉村さんどうですか。

 

吉村

 

 はい。今、リフレインのことがでたんですけど、私はここに挙げられている「眩しすぎる」と「夜をください」に関しては、リフレインされることで最初に提示されたものをまた別の角度から捉え直すような効果があるように、思いました。「眩しすぎるものを堪える」それをまた別の視点から、「夏の果て」だと規定する。「夜をください」ということに対して、「永遠に冷たい洗濯物をください」。夜と「冷たい洗濯物」が、類似するものあるいは代替物になりうるものとして、ここで読者に対して「夜をください」ということがどういう意味を持っているのかということを、二度目のリフレインで示し得るのかなと思って読んでました。あと、服部さんの比喩について述べたいんですけど、やっぱり服部さんの比喩ものすごくびっくりするんですよね。その、びっくりするというのは、普通比喩はABに喩えるというもので、その見立てだけでも十分歌になりうるんですけど、服部さんの場合はその比喩があるという前提を持った上で歌で語ってくる感じがして、例えば「北へゆく鳥と思っていたものが手としてシャツの襟を直した」というこの喩ですね。手が北へゆく鳥のようだ、だけでも歌になると思うんですけど、それをすでに前提として、「シャツの襟を直した」という喩を前提として読者に読ませるという迫力が服部さんの歌特有のびっくり感にあるのかなと思ってます。以上です。

 

中島

 

 ありがとうございます。今のリフレインの観点って例えば小説の観点からだとどうなんでしょうかと大鋸さんに振ってもいいですか。

 

大鋸

 

 そうですね、服部真里子さんの歌ということで、これを例えば丹下段平さんが歌っていたらどうなんだろうと考えてですね、そういうことを短歌やられてる人って考えないですか?

 

中島

 

 多分、それをここで言いだすとですね、それぞれに百家争鳴の状態になると思うんですけど、いわゆる作者と結びつけて考えるという考え方と、作者と切り離して考えるという考え方と両方あります。で、なんだろう。若い世代になればなるほど切り離して考えるというのが増えているとは思います。勝手に暴力的なことを言ってます今、ものすごい反発受けるかもしれません。

 

大鋸

 

 要するに、作者性と作品があってですね、あとは一首を読んだ時とまとめて読んだ時の作者性と作品との関係を考えてですね、例えば、僕が書くとしても、こういう作品はちょっと恥ずかしくて書けない。そういうものを書いて素晴らしいと思える作品が出来てくる、その本質がどこにあるかというと、それは服部真里子さんの作家性にあるんじゃないかという気がします。作家性について色々考えました。

 

中島

 

 ありがとうございます。秋月さんいかがですか。

 

秋月

 

 昨年の、(下北沢)B&Bで話してましたよね、あの時に服部さん何がギリギリなのか問われた時に、自分として最高の歌を出すことが、ギリギリだって、通常営業と服部さん言っていて、作者の言葉をそのまま受け取る必要ないんですけど、だから今日の回答として考えた時にギリギリって何だていうためにあるんですけど、だから僕はあんまりギリギリ感はない、と。で、個別の歌に関しては一で挙げていただいている比喩の、特に僕は一首目面白い歌だと思って、これ「船ひとつ塗りかえられるほど」というのはペンキの量みたいなものを想像させられるんですけど、量的なものが「ほどの青さ」と、軸が急に変わる、人によっては強引というかもしれないですけど、こういうのの使い方が面白いと思いました。

 

中島

 

 ありがとうございます。(堀田さん)ありますか?

 

堀田

 

 ギリギリというのはちょっとわかる気がして。服部さんの歌、常にそういう比喩出てくるんですけど、それをギリギリまで詰め込んじゃっている。まあサービス精神というか。逆にちょっと自制心が効かないというかこの一連だと他のと比べて感じていて。なんでこんなに素晴らしい比喩があって二つも一首に入れてリフレインしちゃうかなとか。常に考えてすごく成功している歌と、逆に発想があまりにも豊かなんだけれどちょっとギリギリまでやっちゃって、そこでポシャっているよねっていう歌があるんじゃないかな。

 

秋月

 

 でもそれって、今回に限らず服部さんの歌って常にそういう感じっていう。

 

吉田

 

 通常営業じゃないかなっていう。